香川県高松市
高松市は香川県のほぼ中央部にあり、北部は瀬戸内海に面し南部は讃岐山脈が連なります。古くから人が行き交う交通の要衝で、香川県の県都であり四国の中枢都市として発展を遂げてきました。市域は讃岐平野の一部である高松平野が広がり香東川や本津川などが貫流します。
- 面積
- 375.41km2
- 人口
- 416,266人(2021年11月1日)
- 市の木
- 黒松
- 市の花
- ツツジ
- 地図
高松市を巡る歴史
高松は室町時代に管領を務めたことがある細川家が統治を始め、やがて細川家で頭角を現した三好長慶が養子に出した十河家が支配するようなりました。長宗我部元親の侵攻で十河家は追放されたあと、豊臣秀吉が四国征伐を起こすと讃岐国は最終的に生駒家に与えられました。生駒親正は高松城を築いて城下町を整備し、生駒騒動で改易されると松平家が高松城を引き継ぎ、藩政を行う中で現在につながる地場産業を興しています。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代の高松平野周辺では中間西井坪遺跡、国分台遺跡が造られ、古くから人の営みがありました。約1万年前には海面上昇により瀬戸内海がほぼ現在の形になりました。やがて稲作が伝わると高松平野に林坊城遺跡、さこ長池遺跡、天満宮西遺跡、井出東遺跡が造営されたのち、集落を守るために久米池南遺跡、中山田遺跡、前田東中村遺跡などの丘陵の高地性集落が造営されました。
古墳時代、飛鳥時代
4世紀に全国的に前方後円墳が造営されるようになると、岩清尾連山に高松市茶臼山古墳などが造営され、峰山には猫塚古墳を始めとする清尾山古墳群が造営されるようになりました。茶臼山古墳の埋葬者は畿内と密接な関係にあり、石清尾山古墳群に埋葬される有力者たちを牽制する役割がありました。
特に大きな古墳が猫塚古墳です
出土品から畿内との密接な関係が示唆されます
5世紀頃には本津川流域の丘陵に今岡古墳や女木丸山古墳が造営されました。今岡古墳は畿内の強い影響を受けた古墳で、女木丸山古墳は百済との交易で得られた黄金の垂飾付耳飾が出土しています。6世紀に日本に仏教が伝来すると、高松平野では久本古墳、南山浦古墳群、神高古墳群、矢野面古墳などで横穴式石室が多く造られるようになりました。
畿内の強い影響を受けた古墳です
畿内に近く交通の要衝となりました
景光天皇の子である神櫛皇子は讃岐国に降り、その3世孫である須賣保禮命が国造となりました。子孫は世襲してこの地域を支配し、紗抜大押直の姓を得たのちに延暦10年(791年)に讃岐公となりました。承和3年(836年)に讃岐朝臣と改賜されて、その末裔が植田氏、神内氏、三谷氏、寒川氏、由良氏、十河氏、高松氏、高木氏、三木氏などになりました。
奈良時代、平安時代
朝鮮半島で高句麗、百済、新羅が争うと、斉明天皇6年(660年)に朝鮮半島で百済が中国唐と新羅に攻められて滅亡すると、倭(日本)は百済復興のために兵を差し向けて天智天皇2年(663年)に白村江の戦いで敗れて百済の人たちとともに撤退しました。大和朝廷は中国唐と新羅の船団を迎え撃つため、瀬戸内海の中でも備讃瀬戸の東限に位置し畿内に抜ける海上ルートにおける要所である屋島に天智天皇6年(667年)に屋島ノ城と呼ばれる山城が築かれました。
中国唐と新羅の侵略に備えて築城しました
国分寺や国分尼寺の瓦が焼かれました
天平13年(741年)に聖武天皇が発した国分寺建立の詔により讃岐国分寺と讃岐国分尼寺が建造されました。寺院に使用される瓦は府中山内瓦窯跡の残される14基の窯で焼かれました。天平勝宝6年(754年)には鑑真和上が東大寺に向かう途中屋島を訪れて屋島寺を創建しています。
聖武天皇の詔により建てられました
国分寺の近くに築造されました
香川県誕生した真言宗開祖の空海は、弘仁12年(821年)に日本最大級の溜池である満濃池の修理工事に着手しました。空海は中国唐で得た最新土木技術を駆使し、日本最初のアーチ型ダム方式の堤防を短期間に完成させ、従来の数倍の強度を誇るため池を築き上げました。
鎌倉時代、南北朝時代
平安時代末期に屋島を根拠地の一つとしていた平家は、源義経の奇襲により敗れ、壇ノ浦の戦いで滅亡しました。やがて鎌倉時代が成立すると後藤基清が守護となり、続いて近藤国平や三浦光村らが守護となりました。鎌倉時代末期には舟木(高松)頼重が讃岐守護職となり高松城(喜岡城)を築城しています。
室町時代、安土桃山時代
足利尊氏に仕えて鎌倉幕府討伐に功を得た細川顕氏は、建武3年(1336年)に讃岐国の守護職を与えられました。家督を継いだ細川繁氏が若くして亡くなると、讃岐国は又従兄弟の細川頼之に引き継がれました。やがて阿波国で力をつけた細川家重臣の三好長慶は、弟を十河家の養子に出して十河一存として讃岐国の支配を強めました。十河一存が永禄4年(1561年)に病没して十河存保が家督を継ぎますが、天正12年(1584年)に十河存保は土佐国の長宗我部元親に敗れ、十河城は落城して豊臣秀吉を頼り落ち延びました。
天正13年(1585年)に豊臣秀吉が四国征伐を起こして四国を平定すると、讃岐国は仙石秀久に与えられました。天正15年(1587年)の九州征伐において仙石秀久が戸次川の戦いで敗れると、仙石秀久はその責で改易され、そのあとに讃岐国を与えられた尾藤知宣も改易されたことで生駒親正に与えられました。
江戸時代
生駒親正は天正16年(1588年)に高松城(玉藻城)の築城に取り掛かり城下町を整備しました。4代藩主生駒高俊は風流遊びにのめり込み家老同士の対立に発展しました。この生駒騒動により生駒高俊は讃岐国を召し上げられ、寛永19年(1642年)に徳川光圀の兄である松平頼重が入りました。
日本三大水城のひとつで四国最大の城郭でした
高松松平藩の藩主の邸宅でした
松平頼重は栗林荘と呼ばれる下屋敷と築庭を進め、5代藩主松平頼恭が完成させました。松平頼恭は塩田開発を行うほか砂糖の研究を進めました。やがて雨の少ない讃岐国は干ばつなどで藩財政が悪化しますが、のちに塩と砂糖は二白として藩財政を支えることになります。
高松松平藩の下屋敷が置かれた庭園です
甲斐武田氏の末裔が造営した庭園です
甲斐武田氏の末裔である小比賀家は、天正10年(1582年)に武田家が滅亡して讃岐に移り住み宝山城に預けられましたが、天正13年(1585年)の豊臣秀吉の四国征伐により室山城が落城し、以降は御厩の大庄屋などを務めてきました。小比賀家が広大な屋敷に築堤した池泉回遊式庭園は、小比賀家築山庭園と呼ばれています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県により香川県が成立して高松はその県庁所在地になりますが、明治6年(1873年)には名東県に吸収合併されて県庁所在地としての地位は消滅します。さらに明治8年(1875年)には再び香川県は独立し高松は再び県庁所在地になりますが、翌年には愛媛県に吸収合併されました。香川県は明治21年(1888年)に独立を果たして香川県が成立しました。
明治8年(1875年)に一般公開されました
香川県の産業等の発信地として開設しました
高松松平藩の下屋敷である栗林荘は、明治8年(1875年)に県立公園として一般に公開されました。栗林公園には明治32年(1899年)に香川県の文化・芸術・産業の発信地として商工奨励館が開設し、昭和5年(1930年)には栗林公園動物園が開園して平成16年(2004)まで営業しました。
世界初のガラスで建造された灯台です
四国の玄関口として開設しました
高松港は昭和26年(1951年)に重要港湾に指定され、平成13年(2001年)にサンポート高松が開港します。国際的な港湾としての側面もあり、平成9年(1997年)の韓国釜山港を皮切りに中国上海港、中国青島港との国際定期航路が開設されました。