大洲城
大洲城は元弘元年(1331年)に伊予国守護の宇都宮豊房により創建された地蔵ヶ岳城が始まりと云われます。以来戦237年ものあいだ宇都宮氏の居城でしたが、永禄11年(1568年)に宇都宮氏は河野・毛利連合軍に敗れ、大洲城は河野氏の武将、大野直昌が預かることになりました。
天正13年(1585年)に羽柴秀吉の四国平定で、当時大洲城城主であった大野大野直昌の弟、大野直之は秀吉方の小早川・吉川連合軍に敗れました。戦後、小早川隆景は伊予35万石を与えられ湯築城を居城とし大洲城を支城としました。
台所櫓は安政6年(1859)に再建されたものです。
高欄櫓は万延元年(1860)に再建されたものです。
天正15年(1587年)に小早川隆景が九州に転封となると戸田勝隆が宇和・喜多郡16万石に封じられ主城を大洲とし板島、松葉、黒瀬の各城に城代を置きますが、文禄3年(1594年)に戸田勝隆が朝鮮で病死し、文禄4年(1595年)に藤堂高虎が宇和郡板島7万石の城主として封じられました。併せて宇和、喜多、浮穴各郡約6万6千石の蔵入り代官を命じられた藤堂高虎は板島に城代を置き大洲城を居城としました。
天守の麓にある井戸です。
高床倉庫で大洲城の食糧庫と考えられています。
慶長5年(1600年)に藤堂高虎は、関ヶ原の戦いの恩賞として今張国分山城を追増され、慶長7年(1602年)に今治城の普請をを始め大洲には養子の藤堂高吉を城代に据えました。慶長10年(1605年)に奉行の田中林斎は、命を受けて城下に塩屋町を創設した商人に褒状を送っています。このころから大洲が城下町としての形態を整え始めました。
門番の方が住んでいた長屋です。
大洲城からの市街の眺めです。
慶長14年(1609年)に淡路国洲本より藤堂高虎と同じ近江出身の脇坂安治が喜多・浮穴・風早の三郡において5万3500石を与えられ大洲城を居城としました。脇坂安治は元和3年(1617年)に信濃飯田城主として移るまでの間、給人所法度や庄屋体制を確立し大洲藩での近世的封権制度を形付けたと考えられています。
脇坂安治が信濃飯田城に移ると伯耆国米子から加藤貞泰が6万石で大洲城に入城します。以降、版籍奉還まで加藤氏による統治は続きました。
大洲城は明治21年(1888)に天守が取り壊されましたが、台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓の4棟の櫓は解体をまぬがれ、いずれも国の重要文化財に指定されています。なお、現在の4層4階の天守は明治期の古写真や天守雛形と呼ばれる江戸期の木組模型などの史料をもとに平成16年(2004年)に木造復元されました。
大洲城の歴史
大洲城の歴史をまとめてみました。
- 元弘元年(1331)
- 宇都宮豊房が地蔵ケ岳に城を築く
- 天正13年(1585)
- 羽柴秀吉の四国平定後、道後湯築城を本拠とする小早川隆景の支城となる
- 天正15年(1587)
- 戸田勝隆16万石で大洲に入城し、宇和郡、喜多郡が領地となる
- 文禄4年(1595)
- 藤堂高虎7万石で板島に入城する。大洲は蔵入り地となり高虎が代官となるが、すぐに大洲を居城とする
- 慶長14年(1609)
- 脇坂安治が洲本より大洲に入城する。喜多、浮穴、風早三郡において5万石余を領する
- 元和3年(1617)
- 加藤貞泰が米子より大洲に入城する。喜多郡、浮穴郡、風早郡、桑村郡などのうち6万石を領する
- 享保7年(1722)
- 三の丸南隅櫓が焼失
- 明和3年(1766)
- 三の丸南隅櫓が再建される
- 天保14年(1843)
- 苧綿櫓が再建される
- 安政4年(1857)
- 地震により台所櫓、高欄櫓が大破する
- 安政6年(1859)
- 台所櫓が再建される
- 万延元年(1860)
- 高欄櫓が再建される
- 昭和28年(1953)
- 大洲城跡が県指定史跡に指定される
- 昭和32年(1957)
- 台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓及び三の丸南隅櫓が重要文化財に指定される
- 昭和40年(1965)
- 三の丸南隅櫓の解体修理が完了
- 昭和45年(1970)
- 台所櫓、高欄櫓の解体修理が完了
- 平成14年(2002)
- 天守復元工事が起工
- 平成16年(2004)
- 天守復元工事が完成
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒795-0012 愛媛県大洲市大洲903
- アクセス
- JR伊予大洲駅より徒歩約30分
- 営業時間
- 9:00~17:00
- 料金
- 550円(天守入場料)