唐津城
唐津城は、豊臣秀吉の家臣である寺沢志摩守広高が慶長7年(1602年)から7年の歳月を費やして築城しました。築城には豊臣秀吉の死後、廃城となっていた名護屋城の遺材を使用し、九州各地の大名が手伝い普請をしたと伝わっています。
もともと唐津城の周辺は、波多氏の勢力下にありました。文禄2年(1593年)、当主の波多親が朝鮮出兵時の落ち度などが原因で豊臣秀吉に所領を召し上げられてしまい、名護屋城の普請にも関わった寺沢広高が新たな領主となります。寺沢広高は岸岳城に入り名護屋城とともに拠点としていましたが、慶長7年(1602年)から新たに唐津城の築城を行います。
広高の後を継いだ2代藩主の堅高は、天草の乱の遠因を作ったとして天草領4万石を没収されたことを憂いて、正保4年(1647年)に江戸で自害し寺沢家は断絶となります。
慶安2年(1649年)、播磨国明石から大久保忠職が入封し、2代目の忠朝が延宝6年(1678年)に下総国佐倉へ転封となり、代わりに佐倉の松平乗久が入ります。松平氏3代乗邑は元禄4年(1691年)、志摩国鳥羽の土井利益と領地替えとなっています。
宝暦12年(1762年)、土井氏4代目の利里が下総国古河に移封され、三河国岡崎の水野忠任が入ります。水野氏も4代続き、後に天保の改革を手がける忠邦が文化14年(1817年)に遠江国浜松へ移ったため、陸奥国棚倉藩主だった小笠原長昌が入り幕末まで続きます。
明治4年(1871年)に廃藩置県によって廃城となり、その本丸跡は舞鶴公園となりました。現在の天守閣は昭和41年に完成したものです。
唐津城は満島山とよばれる陸続きの島にあり、三方を海と川に囲まれた満島山を本丸としていました。城内は石垣をめぐらし濠が掘られていたそうです。
また天守閣を要に左右に広がる松原が鶴が翼を広げた形に似ていることから、舞鶴城ともいわれています。
築城した場所が海に近いのは、平和な時代になることを予見して経済的な効果を考えてのことなのかもしれませんね。
- 住所
- 唐津市東城内
- アクセス
- JR唐津駅より徒歩20分
- 営業時間
- 9:00〜17:00
- 料金
- 大人500円
- 地図