名護屋城跡
名護屋城は豊臣秀吉による文禄・慶長の役(1592年~1598年)の出兵基地として築かれた巨大な城です。
国内統一を果たした豊臣秀吉は大陸進出を目指すようになり、その前線基地として1591年(天正19年)名護屋城の築城を九州の諸大名に命じ、突貫工事によりわずか5ヶ月で巨大な五重天守が建つ総石垣造りの大城郭を完成させました。
朝鮮出兵のための城(陣城)ながら城域は約17万平方メートルにも及び、当時は大阪城に次ぐ全国2位の規模でした。広大な御殿建築や10基を超える重層櫓、茶室、能舞台まで備わり、伏見城や聚楽第にも匹敵する絢爛豪華な城だったそうです。
全国から参集した諸将は名護屋城の周りに陣屋を構え、約130の陣屋跡が確認されています。また全国から集まった武士と商人で人口20万人を超える城下町ができました。
1599年(慶長4年)に秀吉が病死すると戦いは終結し、名護屋城は廃城となります。城の用材は唐津城の資材にされたと言われ、大手門は伊達政宗に与えられ仙台城に移築されたと伝わります。
その後残っていた石垣も、1638年の島原の乱で廃城であった原城が不穏分子に利用されたことを教訓として破壊されたと考えられています。
なお、文禄・慶長の役では朝鮮半島から多くの人が大名によって日本に連れて来られました。その中の優れた技術を持つ陶工は九州各地で製陶を行いました。佐賀県を代表する唐津焼、有田焼なども彼らが作り始めたと言われています。
旅の記録
- 住所
- 佐賀県唐津市鎮西町名護屋
- アクセス
- 唐津駅からバスで「名護屋城博物館入口」約40分、徒歩約5分
- 営業時間
- 9:00~17:00
- 料金
- 歴史遺産維持協力金 100円
- 地図