まいぷら

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嘉数高台公園

沖縄県宜野湾市の旅行で訪れた観光名所、嘉数高台公園

沖縄本島中部の宜野湾市にある嘉数高台公園は沖縄戦時の激戦地で、今でも日本軍が使用した「トーチカ」があり、戦争について学べる場でもあります。今は公園として整備され世界平和を願う地球儀をイメージした展望台があります。嘉数高台公園の眼下には米軍の普天間基地があり、遠くには那覇市や浦添市、遠くは読谷村が眺められます。

嘉数高地

太平洋戦争末期にあたる昭和20年(1945年)4月1日、米軍は沖縄本島の中部西海岸(現在の北谷町)から上陸し南下を始めました。沖縄守備隊である第32軍は米軍との上陸決戦を避け、司令部がある首里を中心に西原から浦添一帯に陣地を設け持久戦を取りました。その最前線の陣地が置かれたのが嘉数高台でした。

米軍は早くも4月6日に宜野湾村の南側に進出し、嘉数を中心とした戦線では待ち構えた日本軍と最初の大規模な戦闘になりました。日本軍は進路に地雷を設け、重火器などで攻撃して米軍は22台の戦車を失いました。米国戦史には嘉数地区の戦闘は沖縄戦で最大の損害であったと記されています。

陣地濠

沖縄県宜野湾市の旅行で訪れた観光名所、嘉数高台公園の陣地濠陣地が張り巡らされていました

トーチカ

沖縄県宜野湾市の旅行で訪れた観光名所、嘉数高台公園のトーチカコンクリート製で多くの弾痕が残ります

嘉数に駐屯した日本軍は嘉数高地を中心とした周辺地域に陣地濠を築きました。陣地濠は昭和19年(1944年)の夏ごろから朝から夕方まで作業が進められ構築されました。石灰岩を刳り抜いてコの字型に構築され、側面には落盤防止用の杭木の跡もあるようです。また、日本軍が応戦したトーチカも当時のまま残されています。

嘉数高地の戦闘の解説文

嘉数高地は第二次大戦中に作戦名称第70高地と命名され、藤岡中将の率いる第62師団独立混成旅団、第13大隊原大佐の陣頭指揮で約千人の将兵と約千人の防衛隊で編成された精鋭部と作戦上自然の要塞の上に堅固な陣地が展開されたが遂に日本軍は矢尽き刃折れ後退したが、しかし米軍にとっては「死の罠」「いまわしい丘」だと恐れられたほどに両軍共に多くの尊い人命を失った激戦地である。

この嘉数高地七〇高地は、旧日露戦争の二〇三高地に値する第二次大戦の歴史の上に永代に残る戦跡である。

戦前の嘉数は家屋や道路が碁盤状に整備され田畑に囲まれたのどかな集落でしたが、太平洋戦争では日米両軍の主力が激しい攻防が繰り広げられました。戦闘の末に日本軍は浦添の前田高地に撤退し、戦線は浦添、西原、首里そして南部方面へと移りました。

弾痕の塀

沖縄県宜野湾市の旅行で訪れた観光名所、嘉数高台公園の陣地濠無数の弾痕跡が残されています

京都の塔

沖縄県宜野湾市の旅行で訪れた観光名所、嘉数高台公園の京都の塔京都出身者が多く亡くなりました

嘉数の戦闘では日米両軍の多くの兵士が亡くなりましたが、嘉数住民も戦闘に巻き込まれ住民の半数以上が亡くなりました。嘉数高台公園には沖縄戦で亡くなった嘉数住民の慰霊碑「嘉数の塔」や日本軍に多く在籍した京都出身者の慰霊碑「京都の塔」などの慰霊碑が多く建てられています。

普天満基地

嘉数高台公園は普天間基地の滑走路の延長線上にあり、展望台からは普天間基地が眼下に眺められるため、報道などで使用される映像はここからの眺めが多いです。長い滑走路が整備されており飛行機やヘリコプターが離発着するたびに騒音が響き渡ります。

昭和20年(1945年)4月1日に米軍が上陸して沖縄戦が開始されると、同年6月頃には日本本土決戦に向けて米軍により普天間飛行場の建設が開始されました。昭和37年(1962年)にはフェンスが設置されるなど基地としての形態となり、昭和53年(1978年)にハンビー飛行場の返還に伴い、基地機能が普天間飛行場に移されています。

嘉数高台公園展望台

沖縄県宜野湾市の旅行で訪れた観光名所、嘉数高台公園展望台地球儀をイメージしたデザインです

普天間基地

沖縄県宜野湾市の旅行で訪れた観光名所、普天間基地市街地の奥に普天間基地の滑走路が見えます

普天間基地は475.9ヘクタールの面積に軍関係者が約3,200人駐屯していました。オスプレイの事故や米兵による少女暴行事件などで基地移設の機運が高まり、日本政府は辺野古への移転を決めています。辺野古の埋め立ては現在も進められていますが、平成27年(2015年)にキャンプ瑞慶覧が、平成29年(2017年)に普天間飛行場東側沿いの土地約4ヘクタールが返還されています。

旅の記録
住所
〒901-2226 沖縄県宜野湾市嘉数1丁目5
アクセス
バスで嘉数下車、徒歩15分
営業時間
9:00~21:30
料金
無料
地図