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ひめゆりの塔と平和祈念資料館

沖縄県糸満市の旅行で訪れた観光名所、ひめゆりの塔

ひめゆりの塔は、太平洋戦争の末期に起きた沖縄戦で日本軍に従軍して看護活動などを行った「ひめゆり学徒隊」の遺骨が納められている慰霊塔です。この近くには戦争の悲惨さを後世に残すために開館した「ひめゆり平和祈念資料館」があり、ひめゆり学徒隊として亡くなった方の資料が展示されています。

ひめゆりの塔

ひめゆりの塔は、沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校に通っていた学生で構成された「ひめゆり学徒隊」の遺骨が納められている慰霊塔です。昭和20年(1945年)に沖縄県で本格的な戦闘が始まると県内の女学生たちは戦争に駆り出されて医師や看護師に付き従い看護活動などを行いました。そのような活動をしていた学生隊の1つがひめゆり学徒隊です。

ひめゆりの塔

沖縄県糸満市の旅行で訪れた観光名所、ひめゆりの塔南国の雰囲気の中にあります

ひめゆりの塔

沖縄県糸満市の旅行で訪れた観光名所、ひめゆりの塔塔の前の穴が最後に活動していた病院です

ひめゆり学徒隊は南風原の沖縄陸軍病院で日本兵の治療に従事しましたが、戦況悪化により陸軍病院が沖縄本島南部に移転すると付き従い、沖縄南部で突然の解散命令を受けて多くの人がどうすることもできず自決や戦死により亡くなりました。

ひめゆり学徒隊

ひめゆり学徒隊は沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校に通っていた13歳から19歳の女学生で構成され、医師や看護師に付き従い戦争に駆り出されて日本軍を支えました。ひめゆりの名前は植物の名前ではなく、沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校の学校広報誌が「乙姫」と「白百合」だったことから「ひめゆり」と名付けられました。

昭和20年(1945年)3月に動員されたひめゆり学徒隊は沖縄陸軍病院で看護に従事しました。沖縄戦が激化し海からの艦砲射撃や空からの空爆により地下壕を病院としていました。医療設備はなく換気や衛生状態なども悪い過酷な環境で看護活動を行いました。

ひめゆり学徒隊の活動

ひめゆり学徒隊は医師や看護師に従い負傷した兵士の看護を行うために派遣されました。うめき声、血生臭い匂いが立ち込める薄暗い地下壕の中で包帯の交換や傷口に湧いたウジの除去などの看護活動を行いました。

学徒隊は看護に従事するほか飯あげ場で作られた食事を地下壕に運ぶ仕事も行いました。整備されていない道を砲弾を避けながら飯あげ場まで走り、食事を入れた重さ14キロほどの大きな樽を担いで地下壕まで命がけで運びました。

戦争が激化して負傷者が増え医薬品が不足すると兵士の手足を切断して壊死の進行を防いでいました。麻酔が無い切断手術で激痛に耐えかねて暴れる兵士を学徒隊が押さえつけました。また沖縄陸軍病院が南部に移転するときには、身動きが取れない重症者を自決させるため青酸カリを混入したミルクを配るなど辛い役目が与えられました。

同年5月になると戦線が広がり南風原の沖縄陸軍病院は更に南部に移転することになりました。沖縄南部に移転した陸軍病院で看護活動を続けますが、負傷する兵士が増え続けて病院としての機能が追い付かなくなり、同年6月に病院は閉鎖され、ひめゆり学徒隊も解散命令が下されました。

突然の解散命令により戦場に取り残された学徒隊は、多くの学生は地下壕に潜んでいるほかありませんでした。しかし米兵が地下壕に爆弾を投下したため地下壕で多くの方が亡くなりました。

また地下壕を離れていた女学生も行き場を失い、身投げや手りゅう弾による自決により多くの方が亡くなりました。沖縄陸軍病院に派遣されたひめゆり学徒隊240名のうち136名が亡くなりましたが、このうち86%にあたる117名は解散命令の後に亡くなりました。

ひめゆり平和祈念資料館

ひめゆりの塔の近くにはひめゆり平和祈念資料館があります。この資料館は、ひめゆり学徒隊として従軍しながら生存することができた方々が戦争の悲惨さを後世に残すために設立しました。

ひめゆり平和祈念資料館

沖縄県糸満市の旅行で訪れた観光名所、ひめゆり平和祈念資料館学徒隊の展示があります

ひめゆり学徒隊行動

沖縄県糸満市の旅行で訪れた観光名所、ひめゆり学徒隊3月に動員されて6月の解散まで活動しました

資料館の内部にはひめゆり学徒隊として従軍して亡くなった方の遺影が一人ずつびっしりと並び、その方の人となりが分かる紹介文が添えられています。ごく普通に明るい希望を持って生活していた若い女性たちが戦争に駆り出されて地獄のような日々を送った姿を通して戦争の悲惨さを感じることができます。

旅の記録
住所
〒901-0344  沖縄県糸満市伊原671-1
アクセス
那覇空港から車で40分
営業時間
9:00~17:00
料金
450円
地図