歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

ニース

フランス共和国・ニース市街

ニースはフランス南部のコートダジュールにあるアルプ=マリティーム県の県庁所在地です。ギリシャ人により建設された都市で19世紀にはヨーロッパの保養地として長年にわたり多くの芸術家たちのゆかりの地になりました。

概要

面積
71.92km2
標高
10m
人口
34.25万 (2015年)
地図

歴史

ギリシャ人により建造されたニースは、ローマ帝国では属州の首都として栄えました。ローマ帝国が崩壊して混乱の時代を迎えますが、プロヴァンス王国やザヴォイア公国などの支配下となりました。19世紀からイギリス人が避寒地として利用するようになり、20世紀には芸術家が訪れるようになりました。

ローマ時代

アルルの地域にはリグリア族やヴェディアン族が住むようになりました。紀元前6世紀にギリシャ人との交易が始まり、紀元前4世紀から2世紀にマッサリア(現マルセイユ)から来た古代ギリシャ系フォカイア人によりニカイアと呼ばれる町が作られました。このニカイアがニースの名称の由来となります。ニカイアは紀元前14年にローマ支配下になると、アウグストゥス帝の時代にローマ属州アルプ・マリティムに組み込まれました。町はローマ支配下でケメネルムと呼ばれるようになり、3世紀にアンブランに移るまでアルプ・マリティムの首都として栄えました。

フランス・ニース市街

ニース市街

古代ギリシャ系フォカイア人によりニカイアと呼ばれる町が作られ、このニカイアがニースの名称の由来となります。

フランス・ニース市街

ニース市街

3世紀までローマ時代に属州アルプ・マリティムの首都ケメネルムとして繁栄しました。

プロヴァンス王国

5世紀後半にローマ帝国が衰退すると侵略による混乱の時代に突入します。フランク王国カール大帝の子ルートヴィヒ1世が死去すると、843年のヴェルダン協定によりフランク王国は3つに分裂しました。ニースは中部フランク王国に属しますが、国王ロタール1世が死去すると中部フランク王国は細かく分割されて855年にプロヴァンス王国に属しました。プロヴァンス国王シャルルが864年に後継者を残さずに死去すると、869年のメルセン条約によりプロヴァンス王位は西フランク王国のシャルル2世が継ぎました。

プロヴァンス伯

888年に西フランク王国がローマ皇帝カール3世に相続され、彼の死後にプロヴァンスはルイ3世に相続されてプロヴァンス王国が復活しました。ルイ3世はイタリア侵攻するも敗北したため、アルル伯ユーグ・ダルルは933年にプロヴァンス領をブルグント国王ルドルフ2世に譲りアルル伯が統治を行いました。968年にアルル伯ボソ2世はプロヴァンス領を分割せずに子供たちに相続したことで、子供たちは初めてプロヴァンス伯を名乗りました。その一人であるギヨーム1世は972年にイスラム勢力のサラセン人を追い出して統治を盤石なものにしました。ブルグント王国は1032年に神聖ローマ皇帝コンラート2世に相続されますが、プロヴァンスは独立国家として存続しました。

シャルル2世

シャルル2世

プロヴァンス国王シャルルが864年に後継者を残さずに死去したため、869年のメルセン条約でニースを治めることになりました。

コンラート2世

コンラート2世

神聖ローマ帝国の皇帝としてプロヴァンス王国を構成国家としていましたが、プロヴァンス王国は独立国家としてニースを支配しました。

サヴォイア公国の統治

1388年にサヴォイア伯アメデーオ7世が英仏百年戦争参戦の功績でニースとプロヴァンスの一部を手に入れました。この頃の地中海はジェノヴァ共和国が海岸線を抑えていたため、ニースが唯一の海洋貿易の地ととなり1860年までサヴォイア公国に属して発展を遂げます。1494年にフランスがイタリア半島の所有権を主張してイタリア戦争が始まると、サヴォイア公は神聖ローマ帝国皇帝カール5世と同盟を結び、1538年にカール5世とフランス国王フランソワ1世、ローマ教皇パウルス3世によるニース会議で10年間の休戦に至ります。

侵略されたニース

フランスはスレイマン1世のもと最盛期を迎えていたオスマン帝国と同盟を結び1543年にバルバロス・ハイレッディン率いるオスマン艦隊とフランス艦隊がニースを攻撃して占領しました。さらに17世紀末と18世紀初めに2度、フランスのルイ14世によりニースは占領され砦や城壁を破壊されました。18世紀末にニースはフランス領となりましたが、19世紀初めのパリ条約でサヴォイア公国へ返還されました。

カール5世

カール5世

スペイン国王で神聖ローマ帝国皇帝でした。オスマン帝国スレイマン1世と結んで神聖ローマ帝国領のニースを占領しました。

スレイマン1世

スレイマン1世

ビザンツ帝国を滅ぼしてオスマン帝国の黄金期を築きました。キリスト教を基盤とする神聖ローマ帝国と敵対して戦いを繰り返しました。

プロムナード・デ・ザングレ

ニースはイギリスのビクトリア女王が好んだ場所の一つであり、18世紀中頃からイギリス人が冬期に訪れようになりました。このため、全長4キロほどの海岸線の遊歩道はイギリス人の散歩道を意味するプロムナード・デ・ザングレと呼ばれるようになりました。ニースにはイタリア征服を準備するためにナポレオンが3日間滞在したこともあります。

フランス・ニースのプロムナード・デ・ザングレ

プロムナード・デ・ザングレ

イギリス人の散歩道を意味する全長4キロほどの海岸遊歩道で、各国から避寒客が訪れて大いに賑わうリゾート地となりました。

フランス・ニースのプロムナード・デ・ザングレ

プロムナード・デ・ザングレ

ビクトリア女王が好んだ場所の一つであり、1864年には鉄道が開通しこともありイギリス人貴族の多くがニースに別荘を建てました。

フランス編入から現在

サルデーニャ王国首相カヴールはプロンビエールで密かに会合しナポレオン3世に軍事的な助けを受ける見返りとして、サヴォイアとニース伯領をフランスへ割譲する交渉が行われました。最終的にはイタリア王国成立後の1860年に中部イタリアの併合の代償としてフランスに割譲されることになり、住民選挙によりニースは正式にフランスのアルプ・マリティム県の県庁所在地となります。

芸術家たちが訪れた町

第2次世界大戦では、ニースはイタリアやドイツに占領され、アメリカからの爆撃により被害を受けました。1944年には連合軍のプロヴァンス上陸作戦が成功すると、ドイツ軍はイタリア国境方面へ撤退して1945年に終戦しました。それからのニースは富豪や著名人のほかルノワールや色彩の魔術師と呼ばれたマチスなど20世紀を代表する芸術家たちが訪れています。

フランス・ニースのサレヤ広場

サレヤ広場

18世紀に開設された広場で、市場(マルシェ)が開かれる市民に親しまれる広場です。

フランス・ニースのマティス美術館

マティス美術館

ニースを訪れた魔術師と呼ばれたマティスの美術館で、17世紀のジェノヴァ風邸宅です。