歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

アルル

フランス共和国・アルル市街

アルルは南フランスのプロヴァンス地方にあるゴッホにゆかりの地です。またローマ時代の遺跡が幾つも残されていて、それらを含めて世界遺産に登録されています。アルルはフランスの中でも特に美人が多くて3年に一度アルルの美人を決めるコンテストがあります。このコンテストの参加資格は、アルル出身であるとともに着衣が難しいアルルの民族衣装を自分で着衣できることが条件です。

概要

面積
758.9km2
標高
10m
人口
5.289万 (2015年)
地図

歴史

アルルは、紀元前2~4世紀頃に建造されたローマ時代の地下回廊や大浴場などの遺跡群と10~12世紀にかけて建てられたロマネスク期の教会などが残る街です。現在においても円形闘技場、古代劇場などの古代ローマ遺跡がたくさん残り、南フランスのローマのような趣があります。これらの建造物は1981年にアルルのローマ遺跡とロマネスク様式建造物群として世界遺産に登録されました。

西ローマ帝国の首都アルル

アルルは紀元前6世紀頃ギリシア人により築かれました。紀元前535年にケルト人により支配されてアレラーテと名付けられ、ローマ帝国が紀元前123年に街を占領するとアレラーテは属州ガリア・ナルボネンシスの非常に重要な都市となりました。紀元前46年にはユリウス・カエサルが特権的な地位を与えて第4部隊を設置して、地中海に繋がる運河が建設されたことで地中海交易の要所として栄えました。1世紀にはアウグストゥス帝の支配下でアルルの町が整備され、395年にローマ帝国が東西に分裂すると、408年にコンスタンティヌス3世が西ローマ帝国の西部の皇帝になることを宣言してアルルを都としました。

フランス・アルルの円形闘技場

円形闘技場

1世紀にはアウグストゥス帝の支配下で町が碁盤目状に整備され、政治と宗教の中心である公共広場のほか劇場や凱旋門が建造されました。

フランス・アルルの古代劇場

古代劇場

ローマの人びとは観劇を楽しむために劇場を建てて娯楽を楽しみました。

アルル王国の建国

4世紀からゲルマン人が侵攻を始めると西ローマ帝国は衰退を始め、476年にオドアケルにより西ローマ帝国は滅亡しました。ブルグント王国が建国されますが534年にフランク王国により支配されるようになります。843年にヴェルダン条約でフランク王国が3つに分裂すると、中部フランク国王ロタール1世は855年に末弟シャルルにプロヴァンスを与えてフランク人の都プロヴァンス王国(アルル王国)が建国されました。

神聖ローマ帝国の構成国

アルルは頻繁にイスラム勢力のサラセン人やヴァイキングの侵略者のテロ攻撃を受けました。888年オーセル伯ロドルフが上ブルグント王国を設立しましたが、933年アルル伯ユーグは王国をブルグント国王ロドルフ2世に与えました。ロドルフ2世は二つの王国をアルル王国に併合し、1032年にロドルフ3世が亡くなると王国は神聖ローマ皇帝コンラート2世に継承されました。

ロタール1世

ロタール1世

中部フランク国王としてアルルを支配し、末弟シャルルにプロヴァンスを与えてプロヴァンス王国(アルル王国)が建国されました。

コンラート2世

コンラート2世

神聖ローマ皇帝で、アルル王国をロドルフ3世が亡くなるとアルル王国を構成国の一つとしました。

サン・トロフィーム教会

サン・トロフィーム教会は12世紀に建造されたロマネスク様式の教会です。5世紀に聖ステファノ(サン・テティエンヌ)に献堂されたバジリカ式教会が建てられていましたが、3世紀の初代アルル司教トロフィームの聖遺物を祀る教会として改築されてサン=トロフィーム大聖堂となりました。かつてサン=トロフィーム大聖堂は司教座が置かれ、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの4つの巡礼路の始点の一つでした。

フランス・アルルのサン・トロフィーム教会

サン・トロフィーム教会

初代アルル司教トロフィームの聖遺物を祀り、アルルのローマ遺跡とロマネスク様式建造物群として1981年に世界遺産に登録されました。

フランス・アルルのサン・トロフィーム教会

サン・トロフィーム教会

大聖堂の正面ファザードには聖書の彫刻が施され、字が読めない人でも聖書の内容を知ることができるように工夫されています。

ゴッホの来訪

アルルはローヌ地方の主要な港として長い間繁栄しましたが、19世紀に鉄道が開通して水運による貿易が衰退しました。これによりアルルは僻地と化しますが、アルルの景観に魅了された印象派の代表的画家フィンセント・ファン・ゴッホはアルルに拠点を移してその才能を開花させました。1853年にオランダ南部フロート・ズンデルトで生まれたゴッホは、グーピル画廊に就職したあと牧師を目指しますが挫折して、1880年から画家として活動を始めました。アントウェルペンやパリなどで活動したあと、1888年にアルルに訪れて300以上の絵画や描画を制作しました。

ゴッホ終焉の地

1888年にゴッホはポール・ゴーギャンをアルルに招待して共同生活を送りますが、やがてゴーギャンと口論となり自分の耳を切り落とす事件を起こしました。ゴッホは精神的に病みアルル市内にある病院に入院します。1889年にはアルルを離れてサン=レミのサン・ポール・ド・モーゾール修道院の精神科病棟に移りましたが、1890年にピストルで自殺を図り、その2日後に死去しました。

フランス・アルルのアルルの跳ね橋

アルルの跳ね橋(ラングロワ橋)

アルルからプークに至る運河にかかる橋で、当時の橋は1926年に破壊されたため、1960年に復元されました。

アルルの跳ね橋

アルルの跳ね橋(ラングロワ橋)

ゴッホは1888年に故郷オランダを懐かしんで、ラングロワ橋と洗濯する女性たちを描きました。ゴッホはアルルの跳ね橋を複数枚描いています。

フランス・アルルのカフェ・ヴァン・ゴッホ

カフェ・ヴァン・ゴッホ

1888年に製作された夜のカフェ・テラスの青い夜のなかにガス燈で照らしだされたカフェの外を描いたものです。

フランス・アルルのエスパス・ヴァン・ゴッホ

エスパス・ヴァン・ゴッホ

ゴッホはゴーギャンと口論となり自分の耳を切り落として入院した病院です。ゴッホは1889年にアルルの病院の中庭を製作しています。