歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

ガール

フランス共和国・ガールのポン・デュ・ガール

ガール県はローヌ川とセベンヌ山脈に挟まれるフランスのオクシタニー地域圏の県です。ニームを県庁所在地としています。古代ローマ時代にローマ属州ナルボネンシスに組み込まれ、ニームの原型となるりネマウススの町が置かれましたが、ローマが衰退すると耕地が狭く農業も衰退を続けて過疎地帯となりました。

概要

面積
5,853km2
標高
不明
人口
74.58万 (2019年)
地図

歴史

ガール県は古代ローマ時代に交通の要衝に都市ネマウススが作られました。ネマウススはガリアで最も裕福な都市になりますが、人口増加に伴い水不足となりこれを解消するために世界遺産に認定されたポン・デュ・ガールが建設されました。ローマ帝国の崩壊により侵略されて荒廃しますが、ローマ時代の遺跡が今も良く残されています。

ローマによる支配

ガール県はケルト人のアレコミキ部族の中心集落でした。紀元前120年にユリウス・カエサルによるガリア遠征でローマに征服されると、ローマ属州ナルボネンシスに組み込まれました。紀元前118年にイタリアからスペインに至るドミティア街道の交通の要衝としてローマ皇帝アウグストゥスによりネマウスス(現ニーム)の町が作られました。

繁栄したネマウスス

ネマウススの名称は都市の中心にある泉の精ネマウススに因んだもので、この泉を中心としてガリアで最も富裕な町と言われるほど発展しました。紀元前28年頃にローマ帝国の植民都市となり人口が大幅に増加したことでネマウススは水不足に陥り、ユゼス近郊のユーレとアイランの泉から水を引くために水路が造営されました。その水路の一部がローマの水道橋ポン・デュ・ガールになります。

フランス・ガールのニームの円形闘技場

円形闘技場

1世紀頃の古代ローマ時代に建てられ、世界で最も保存状態が非常に良い闘技場です。現在も闘牛などのイベントに使用されています。

フランス・ガールのニームのメゾン・カレ

メゾン・カレ

5世紀に建てられた古代ローマの神殿で、4世紀にはキリスト教の教会などに転用されたため、破壊されることなく現存しています。

ポン・デュ・ガール

古代ローマ都市ネマウススの水不足を解消するため、山間部のユゼスの水源から50キロメートルのネマウススの町まで水路を築いて水を引きました。ガール川(ガルドン川)に架けられたポン・デュ・ガールは、西暦50年頃のクラウディウス帝又はネロ帝の時代に建設に架けられたと考えられている全長275メートル、高さ49メートルの壮大な石造りの建造物です。ポン・デュ・ガールはネマウススの繁栄の基礎となりましたが、ローマ帝国の崩壊と異民族の侵入により9世紀には使用不能になりました。ポン・デュ・ガールはスペインのセゴビアの水道橋やトルコのイスタンブールにあるヴァレンス水道橋と共に有名な古代ローマの水道橋で、1985年にユネスコ世界遺産に登録されました。

フランス・ガールのポン・デュ・ガール

ポン・デュ・ガール

川幅25メートルのガール川(ガルドン川)に架けられた水道橋で、ローマ時代の水道橋で現存する最大にして最古のものです。

フランス・ガールのポン・デュ・ガール

ポン・デュ・ガール

大きめのアーチの上に小さめのアーチがある三層構造で、1キロあたり25センチの傾斜を利用して水を引いていました。

度重なる侵略による荒廃

395年にローマ帝国が分裂するとガール県は西ローマ帝国に含まれます。4世紀末から大規模な移動を開始したゲルマン人は西ローマ帝国の支配を滅亡に追い込み、ガール県のあたりは473年には西ゴート族に占領され、710年にスペインのムーア人による襲撃を受けニームの町は破壊されました。

アルビジョワ十字軍

フランク王国カロリング朝を開いたピピン3世が統治して比較的平和な時代が訪れます。1185年にはトゥールーズ伯領となりますが、南フランスで異端視されていたアルビジョワ派(カタリ派)が広まると、1209年に教皇インノケンティウス3世の要請によりアルビジョワ十字軍を結成して南フランスで戦闘が繰り広げられました。1229年にトゥールーズ伯レーモン7世は降伏してパリの和約が締結されました。

フランス・ガールのニーム市街

ニーム市街

1229年にトゥールーズ伯レーモン7世が降伏してアルビジョワ十字軍は終結し、ガール県はフランス王領となりました。

フランス・ガールのプラディエの噴水

プラディエの噴水

19世紀に彫刻家のジェイムス・プラディエにより制作されたニームで重要な噴水の一つで、シャルル・ド・ゴール広場にあります。

フランス王国から現在

ガール県ニームはプロテスタントのカルヴァン派の信者が多く住んでいました。プロテスタントは努力して財を成すことを肯定していたため、ニームはビロードや絹織物の産地として栄えました。17世紀には安価で丈夫なデニム生地がニームで誕生しています。1685年にルイ14世がナントの勅令を廃止したためプロテスタント信者の多くが亡命しました。これによりガール県の産業は衰退して大きな打撃を受けました。

フランス・ガールのフォンテーヌ公園

フォンテーヌ公園

1745年にルイ15世の命によりフォンテーヌ公園は建設が始まりました。

フランス・ガールのニーム市街

ニーム市街

第二次世界大戦では1942年からドイツ軍に占領されて、1944年にアメリカ軍の空爆で被害を受けました。