アヴィニョン
アヴィニョンはフランスの南東部に位置する都市です。フランス王フィリップ4世の意志を受けた教皇クレメンス5世は、1309年にローマに戻らずアヴィニョンに滞在して教皇庁の移転を宣言しました。以降アヴィニョンには1377年にグレゴリウス11世がローマに戻るまで7代69年間にわたり教皇が住みました。アヴィニョン歴史地区は1995年に世界遺産に登録されています。
概要
- 面積
- 64.78km2
- 標高
- 23 m
- 人口
- 9.213万 (2015年)
- 地図
歴史
ローヌ河畔にあるアヴィニョンは、ギリシャ人がローヌ川を遡り町を発展させたことに始まります。キリスト教で異端視されたカタリ派が活動したため、アルビジョワ十字軍による遠征で殺戮や略奪が繰り返されました。14世紀にはローマ教皇が教皇庁を置き、やがてローマとアビニョンに教皇が存在する教会大分裂(大シスマ)となり、教皇権の衰退が表面化して宗教改革に繋がることになります。
アヴィニョンの始まりと発展
アヴィニョンは、紀元前6世紀頃にマルセイユ(植民都市マッサリア)を築いたギリシャ民族ポカイア人が、ローヌ川を遡り交易拠点として町に発展させたことに始まります。ローマ帝国時代にはガリア・ナルボネンシス属州の主要都市の一つとなり70年に司教座が置かれました。5世紀にアラブ人の侵攻によりアラブの支配下となりますが、737年にカール・マルテル率いるフランク王国が取り戻しました。アヴィニョンはブルグント王国からアルル王国領となり、12世紀末には独立を宣言して共和制の都市国家となりますが長くは続かず、アヴィニョンはプロヴァンス伯領、次いで1185年にトゥールーズ伯領となりました。
アヴィニョン市街
5世紀にアラブ人の侵攻によりアラブの支配下となりますが、737年にカール・マルテル率いるフランク王国が取り戻しました。
アヴィニョン市街
12世紀末には独立を宣言して共和制の都市国家となりますが、プロヴァンス伯領を経て1185年にトゥールーズ伯領となりました。
アルビジョワ十字軍とサン・ベネゼ橋
南フランスでキリスト教で異端視されていたアルビジョワ派(カタリ派)が広まると、1209年に教皇インノケンティウス3世の要請によりアルビジョワ十字軍が結成されて南フランスで戦闘が繰り広げられました。アルビジョワ十字軍は市民から略奪や殺戮を繰り返し、アヴィニョンは1226年にアルビジョア十字軍を率いたフランス王ルイ8世が占領して武装解除して城壁は破壊されました。
サン・ベネゼ橋
12世紀にベネゼ少年が神のお告げを聞いて建設されたサン・ベネゼ橋(アヴィニョン橋)は、建造当時は22のアーチがある長さ900メートルの橋で、スペインとイタリアを往来する商人や巡礼者に利用されていました。1226年のルイ8世によるアルビジョア十字軍の攻撃により4分の3が破壊され再建を試みましたが、1603年のローヌ川の洪水でアーチが1つ崩壊し、続けて3つが壊れました。ペストの流行も追い打ちとなり現在の姿で残されました。
サン・ベネゼ橋(アヴィニョン橋)
ベネゼ少年が神のお告げを聞いて建造されましたが、アルビジョア十字軍の攻撃やローヌ川の洪水で崩壊して現在の姿になりました。
サン・ニコラ礼拝堂
サン・ベネゼ橋に置かれている教会で、かつては聖ベネゼの聖遺物が祀られていました。
アヴィニョン捕囚
1303年にカペー朝フランス国王フィリップ4世の腹心ギョーム・ド・ノガレは、ローマ近郊のアナーニにいたボニファティウス8世を襲撃してローマ教皇に退位を迫るアナーニ事件を起こしました。教皇の権威は没落を始め、1305年にはフィリップ4世の意思を受けたボルドー大司教ベルトラン・ド・ゴがローマ教皇クレメンス5世に選出されリヨンで即位しました。クレメンス5世は1308年にアヴィニョンを居所に定めると、1377年まで教皇が所在するアヴィニョン捕囚(教皇のバビロン捕囚)が続きました。1348年には教皇クレメンス6世がジョアンナ1世からアヴィニョンを買収して教皇領に組み込み、4キロを超える城壁に囲まれる教皇庁に改修しました。
クレメンス5世
1308年にアヴィニョンを居所に定めると、1377年まで教皇が所在するアヴィニョン捕囚(教皇のバビロン捕囚)が続きました。
ジョアンナ1世
ナポリ女王かつプロヴァンス伯で、アヴィニョンを教皇に売却しました。アヴィニョンはフランス革命で没収されるまで教皇領の飛び地となりました。
アヴィニョン教皇庁
アナーニ事件などで教皇を威嚇したフランス王フィリップ4世は、自身の影響下にあるクレメンス5世を教皇に即位させました。クレメンス5世は、ローマに一度も戻らずに枢機卿団と共にアヴィニョンに滞在して教皇庁の移転を宣言し、グレゴリウス11世がローマに戻る1377年まで7代69年間にわたり教皇が住み続けました。ベネディクト12世が改造した旧宮殿(パレ・ヴィユー)やクレメンス6世が増築した新宮殿(パレ・ヌフ)が置かれた教皇庁では、毎日のように宴会が行われました。
アヴィニョン教皇庁
世界最大のゴシック様式宮殿ですが、1789年のフランス革命で革命派による破壊や略奪により多くのフレスコ画も破壊されました。
アヴィニョン教皇庁
教皇庁宮殿や現在プティ・パレ美術館として利用される大司教館などの建築が数多く残る地区は、1995年に世界遺産に登録されました。
教会大分裂(大シスマ)
1378年に教皇グレゴリウス11世が病没すると、ローマで次期教皇を選出する枢機卿会議が開催されましたが、ローマ枢機卿とフランス枢機卿が激しく対立して決着しませんでした。これに苛立つローマ市民はローマ教皇庁に乱入してフランス人枢機卿たちを締め出して、イタリア人のウルバヌス6世が教皇に選出されました。フランス枢機卿たちはウルバヌス6世の選出は無効としてクレメンス7世を選出しました。こうして1378年から1417年までローマとアヴィニョンにローマ教皇が二人存在する教会大分裂(大シスマ)が続きました。
ウルバヌス6世
ローマ市民はフランス人枢機卿たちを締め出し、ナポリ出身のイタリア人であるウルバヌス6世を教皇にしました。
クレメンス7世
フランス枢機卿たちはウルバヌス6世の選出は無効としてクレメンス7世を選出して対抗教皇としました。
大シスマと宗教改革
教皇庁がローマとアヴィニョンに分裂したことは教皇権の衰退を表面化させ、カトリック教会でのキリスト教信仰のあり方に疑問を生み出すことになりました。1376年にイギリスで始まるジョン・ウィクリフの改革運動が起こり、ボヘミア(ベーメン)でのフスの宗教改革につながりました。教皇権の衰退により各国の君主が力を持つようになり、イングランドでは絶対王政と宗教改革が結び付いてヘンリー8世が英国国教会を設立しました。