ブールジュ
ブールジュは、フランスのサントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏のシェール県にある都市です。世界遺産の道サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるブールジュ大聖堂は世界遺産に登録されています。
概要
- 面積
- 68.74km2
- 標高
- 140 m
- 人口
- 6.607万 (2015年)
- 地図
歴史
ブールジュはケルト系ビトゥリゲス人が築いた城郭都市アウァリクムを起源とします。ローマ軍は攻城塔を駆使してアウァリクム包囲戦を行い陥落させました。ローマによりキリスト教が伝わり聖ステファヌスを祀る聖堂が建てられました。百年戦争ではシャルル7世がブールジュを本拠としました。
アウァリクム包囲戦とローマ時代
ブールジュは、ローマ時代以前にはケルト系ビトゥリゲス人が設けた城郭都市で、アウァリクムと呼ばれていました。現在のブールジュの名称は、ゲルマン系の言葉で城を意味するブルクに由来すると言われます。ユリウス・カエサルによるガリア遠征では、紀元前52年に最も大きく堅牢な守備があるアウァリクムをローマ軍が攻城塔を駆使して包囲戦を行い陥落させました。
フランス王領
3世紀にキリスト教が伝来するとガリアで初めてキリスト教団が誕生しブールジュには300年頃に大司教座が置かれました。11世紀末から12世紀はじめにフランス王フィリップ1世がブールジュをはじめサントル地方の多くを版図に加え、12世紀初頭ブールジュ子爵領の売却によりフランス王領となりました。
ブールジュ市街
ガリア遠征では、紀元前52年に最も大きく堅牢な守備があるアウァリクムをローマ軍が攻城塔を駆使して包囲戦を行い陥落させました。
ブールジュ市街
キリスト教が伝来して300年頃に大司教座が置かれました。12世紀初頭にはフランス王領となり、ベリー地方の中心地として繁栄しました。
ブールジュ大聖堂
ブールジュ大聖堂は正式名称をサン・テティエンヌ大聖堂と言い、キリスト教黎明期にイエスの使徒を補佐して聖地エルサレムで石打ち刑に処せられ、最初に殉教者した聖ステファヌス(聖ステファノ)に捧げるため3世紀に創設されました。9世紀に再建され、11世紀に巨大なロマネスク様式の教会に建替えられました。12世紀後半にはブールジュ大司教オドン・ド・シュリーの寄付により新たな大聖堂の建設計画が進められ、1195年に工事が始まりました。聖堂は1324年に奉献されますが、その後も増改築が繰り返されました。
ブールジュ大聖堂
フランス各地からスペイン北西部の聖ヤコブの聖地へと向かう世界遺産の道サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあります。
ブールジュ大聖堂
1562年にはカルヴァン派のユグノーが襲来して西ファサードなどの彫刻を破壊し、一時は大聖堂の破壊やプロテスタントへの改装が計画されました。
ブールジュ大聖堂
ファザードには最後の審判が彫刻されており、フランス・ゴシック建築の最高傑作の一つとして1992年に世界遺産に登録されました。
ブールジュ大聖堂
5つの入口があり、奥行き124メートル、幅41メートルのフランス最大級の大聖堂の内部は、身廊の天井高37メートルある空間が広がります。
百年戦争とブールジュ
1339年にイギリス王とフランス王の争いである百年戦争が始まりました。1400年にシャルル6世が脳神疾患を患い、王の弟オルレアン公ルイと従兄弟のブルゴーニュ公ジャンが権力を競うようになりました。1407年にブルゴーニュ公がルイを暗殺したためブルゴーニュ派とアルマニャック派の内乱となりました。1422年にヘンリ5世とシャルル6世が相次いで亡くなると、イギリスとブルゴーニュ派は幼少のヘンリ6世を英仏両国の王として即位させ、アルマニャック派はシャルル6世の子シャルル王太子をシャルル7世として即位させてブールジュを拠点としました。
ブールジュ王立貨幣鋳造所
シャルル7世はブールジュ出身の大商人ジャック・クールを登用して財政の整備にあたらせました。1427年にブールジュ王立貨幣鋳造所で貨幣鋳造業を行いますが、意図的に硬貨の質を落として改鋳して財産を成しました。鋳造された貨幣はオルレアン包囲戦で活躍したジャンヌ・ダルク率いるオルレアン解放軍の資金などとなり、罪を咎められたときにこれを理由として罪が酌量され、シャルル7世の赦免状を獲得してパリ造幣局長にも就任しました。
シャルル7世
ブルージュを拠点としてブールジュ出身の大商人ジャック・クールを登用して財政の整備にあたらせました。
ジャック・クールの館
大商人ジャック・クールが建てたゴシック様式の邸宅です。ジャック・クールはオルレアン包囲戦で活躍したジャンヌ・ダルク率いる解放軍の資金などを集めました。