歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

アンドル=エ=ロワール

フランス共和国・アンドル=エ=ロワールのシュノンソー城

アンドル=エ=ロワールは、フランス中部のサントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏の県です。アンドル川とロワール川に囲まれるところから名付けられました。2000年にメーヌ川からシュリー=シュル=ロワールまでの渓谷の主要部分が世界遺産に登録されています。

概要

面積
6,127km2
標高
70 m
人口
60.84万 (2019年)
地図

歴史

アンドル=エ=ロワールは、フランス王室と深い関わりが深い300を超える城が残されており、フランスの歴史と共にありました。ルイ14世がヴェルサイユ宮殿を建てたことによりロワール渓谷にある城の重要性は失われましたが、ロワール地方に残された古城などはシュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷として2000年に世界遺産に登録されています。

ローマ帝国からフランク王国の支配

古代ローマ時代のアンドル=エ=ロワールには、現在の県庁所在地トゥールにトゥロネンシスと呼ばれる都市が建造されました。3世紀の半ばには聖ガティアヌスがローマからトゥールに派遣されてキリスト教が伝わりました。4世紀の後半にはマルティヌスがトゥールの司教を務め、後にマルティヌスは聖人に列せられています。

フランス・アンドル=エ=ロワール市街

アンドル=エ=ロワール市街

4~5世紀のゲルマン人が大移動で西ローマ帝国が衰退すると、ロワールの地域はローマ人シアグリウスが独立してソワソンと呼ばれる独立地域になりました。

フランス・アンドル=エ=ロワール市街

アンドル=エ=ロワール市街

486年にフランク王国クロ―ヴィス1世がソワソンを破り、ロワール川以北を支配下に置きました。

シュノンソー城

シュノンソー城はシェール川の宝石と讃えられる古城で、1512年にヴァロワ朝フランス国王フランソワ1世の時代に宮廷の財務長官トマ・ボイエと、その夫人カトリーヌ・プリソネが建造したことに始まります。1515年にブレゼ伯ルイと結婚したディアーヌ・ド・ポアティエは、1519年にフランソワ1世の王妃クロードに仕えるため宮廷に出仕しました。アンリ2世はディアーヌ・ド・ポアティエに出会い、アンリ2世は20歳年上のポアティエに恋心を抱きますが、1533年にメディチ家カトリーヌ・ド・メディシスと結婚しました。

女性の愛憎劇

アンリ2世は寵愛していたポアティエにシュノンソー城を与えました。1559年にアンリ2世が死去すると、アンリ2世の妻カトリーヌはポアティエからシュノンソー城を奪い、ポアティエを小さなショーモン・シュール・ロワール城に追い出しました。メディシスはフィレンツェで洗練された文化をフランスに伝え、ドレスやアクセサリーなどのほかナイフとフォークを使う文化をメディシスが伝えたと言われます。

フランス・アンドル=エ=ロワールのシュノンソー城

シュノンソー城

6人の女性が城主になり、六人の奥方の城などと呼ばれました。

フランス・アンドル=エ=ロワールのシュノンソー城

シュノンソー城

アンリ2世が死去すると、カトリーヌはポアティエからシュノンソー城を奪い、ポアティエを小さなショーモン・シュール・ロワール城に追い出しました。

アンボワーズ城

アンボワーズ城はガリア・ローマ時代に築かれた砦が起源とされています。ヴァロワ朝フランス国王フランソワ1世が狩猟用の邸宅としてイタリア・ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチに設計させ、ルイ14世の時代に完成しました。15世紀に造営されたアンボワーズ城の庭園は、フランスで初めてイタリア風レイアウトが採用されて幾何学的構成のフランス式庭園の始まりとされています。アンボワーズ城に隣接するサン・ユベール教会堂は1493年に建てられた教会で、1519年に逝去したレオナルド・ダ・ヴィンチの墓が残ります。

フランス・アンドル=エ=ロワールのアンボワーズ城

アンボワーズ城

ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチに設計させ、フランス国王フランソワ1世が狩猟用の邸宅として使用されました。

フランス・アンドル=エ=ロワールのアンボワーズ城

アンボワーズ城

シャルル8世がイタリア遠征でイタリア芸術に魅了され、ナポリの庭師ドン・パッチェロを招いて15世紀に造営しました。

アンボワーズ城とユグノー戦争

16世紀初頭に起きた宗教改革は、ヨーロッパを大きく変えました。ジャン・カルヴァンの思想はフランスでも勢力を強め、カトリック(旧教派)とプロテスタント(新教派)の対立が始まりました。1560年に新教派貴族はアンボワーズ城にいるフランス国王フランソワ2世を誘拐して強硬的な旧教派ギーズ公を排除しようとするアンボワーズの陰謀を画策します。この計画はギーズ公に漏れて失敗しますが、旧教徒と新教徒の対立は更に深まり、この頃から新教派は旧教派からユグノーと呼ばれるようになります。

カトリーヌ・ド・メディシス

フランソワ2世から王位を継いだシャルル9世の母后カトリーヌ・ド・メディシスは、ユグノーとカトリックとの融和を図るために王妹マルグリットをユグノーの指導者ナバラ王アンリに嫁がせました。1572年にパリで結婚式が行われますが、ユグノーの中心人物であるコリニー提督はじめ多くのユグノー貴族が暗殺されるサン・バルテルミの虐殺が起こりました。 旧教派と新教派による宗教戦争はユグノー戦争と呼ばれるようになり、1589年にナバラ王アンリがアンリ4世として王位を継承して信仰の自由を容認したナントの勅令を発するまで続きました。

フランス・アンドル=エ=ロワールのアンボワーズ城

アンボワーズ城

アンボワーズ城でユグノーの裁判が行われ、1千を超えるユグノーが処刑されて遺体はアンボワーズ城の城壁に吊るされました。

カトリーヌ・ド・メディシス

カトリーヌ・ド・メディシス

フランソワ2世とシャルル9世の母后で、ユグノーとカトリックとの融和を図るために王妹マルグリットをユグノーの指導者ナバラ王アンリに嫁がせました。

ドイツの侵略から現代

フランスは18世紀からフランス革命やナポレオンの台頭によるナポレオン戦争などで混沌としますが、アンドル=エ=ロワールは比較的穏やかな時間が過ぎました。しかし1815年にナポレオン最後の戦いとなるワーテルローの戦いでイギリス、オランダ、プロイセンの同盟軍にフランスが敗れるとアンドル=エ=ロワールは1818年までプロイセン軍に占領されました。

第二次世界大戦のドイツ侵攻

1939年にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が開始されると、1940年にフランスにも侵攻を始めました。パリ陥落が目前に迫ると一時的にトゥールに首都機能を移転し、パリが無血開城すると首都機能はボルドーに再移転されました。ドイツに侵略されたアンドル=エ=ロワールは北部をドイツが占領して南部はナチスの傀儡政府ヴィシー政府の支配下となりました。1944年にドイツ軍が撤退するとヴィシー政府は解体されてアンドル=エ=ロワールは解放されました。

フランス・アンドル=エ=ロワール

アンドル=エ=ロワール

ドイツに侵略されたアンドル=エ=ロワールは北部をドイツが占領して南部はナチスの傀儡政府ヴィシー政府の支配下となりました。

フランス・アンドル=エ=ロワール

アンドル=エ=ロワール

1944年にドイツ軍が撤退するとヴィシー政府は解体されてアンドル=エ=ロワールは解放され、古城は状態良く保存されています。