パリ
パリはフランスの首都でフランス最大の都市です。ヨーロッパの主要都市でアート、ファッション、グルメ、カルチャーの世界的な中心地です。19世紀頃に現在のような街並みになり、広い大通りが縦横に走る中をセーヌ川が流れています。パリのセーヌ川の河岸が1991年に世界遺産に登録されています。
概要
- 面積
- 105.4 km2
- 標高
- 35 m
- 人口
- 216.1万 (2019年)
- 地図
歴史
パリはローマ帝国が征服してルルティアとしたのが始まりになります。フランスの前身となる西フランク王国が支配しますが、首都と言われるほど発展していませんでした。12世紀にフィリップ2世がパリに宮廷を移して首都となり、一時的にヴェルサイユ宮殿に宮廷が移されますが、フランスの歴史の中心的な都市となりました。
ルテティアの形成
古代のパリはセーヌ川が流れ沼地に灌木が生えているだけの何もない辺境の地でした。紀元前3世紀にセーヌ川の中州であるシテ島にケルト系パリシイ族が集落を形成してセーヌ川で漁業をして生活しました。このパリシイ族が現在パリと呼ばれる由来であり、シテが英語シティの語源となります。
ガリア遠征
紀元前58年から51年にローマ帝国のユリウス・カエサルがガリア遠征を行いパリを征服すると、この地域は川の中の住処を意味するルテティアと呼ばれました。ルテティアは交通の要衝ととして発展しますが、395年にローマ帝国が分裂して誕生した西ローマ帝国が476年に滅亡すると、ルテティアは6世紀頃には衰退しました。
パリ市街
シテ島にケルト系パリシイ族が集落を形成してセーヌ川で漁業をして生活しました。パリシイ族がパリの由来で、シテがシティの語源となります。
パリ市街
ローマが支配下に置いてルテティアと呼ばれるようになり、交通の要衝として発展しましたが、ローマ衰退とともに6世紀頃に衰退しました。
フランスの前身フランク王国
ゲルマン人の大移動によりゲルマン人の一派であるメロヴィング家のクロ―ヴィスが481年にフランク王国を成立させます。クロ―ヴィスは496年に改宗してアタナシウス派に帰依するとローマ=カトリック教会との関係を深めて急速に勢いを増しました。506年にクロ―ヴィスがパリ中心部の島を首都(シテ)と宣言したことからシテ島と呼ばれるようになりました。
カペー朝
メロヴィング朝はゲルマン人の分割相続制を継承していたことでフランク王国は分裂して西フランク王国が誕生します。やがてカロリング家の系統が途絶えたことで987年にパリ伯ユーグ=カペーがカペー朝を成立します。カペー朝の成立でフランス王国と呼ばれるようになりましたが、パリ伯はパリ周辺とオルレアンに領地を持つのみの地方政権に過ぎずオルレアンに滞在することが多いため、パリは首都と言えるほど発展していませんでした。
クロ―ヴィス
フランク王国を建国してパリ中心部の島を首都(シテ)と宣言したことからシテ島と呼ばれるようになりました。
ユーグ=カペー
カペー朝を成立させてフランス王国と呼ばれるようになりました。カペーはオルレアンに滞在することが多く、パリはあまり発展しませんでした。
フランス王国の首都
1190年にフィリップ2世がパリ全域を囲む城壁の建造を命じ、城壁の外部には堅牢な城塞が建てられました。セーヌ川のほとりにルーブル宮殿が建造され、現在のルーブル美術館の地下には城壁の一部が残されています。パリは12世紀からフランスの首都として発展を遂げ、1345年にノートルダム大聖堂が200年の歳月を経て完成してました。ブルボン朝ルイ14世はテュイルリー宮殿を建造しましたが、1682年に20キロ離れた郊外にヴェルサイユ宮殿を建てて宮廷としたため、一時的にパリは首都ではなくなりました。パリが再び首都となるのは、フランス革命でルイ16世が連れ戻されてからになります。
ルーブル美術館
かつてルーブル宮殿が建造されており、ルーブル美術館の地下には城壁の一部が残されています。
ノートルダム大聖堂
1345年に200年の歳月を経て完成してたゴシック様式の大聖堂です。
フランス革命とセーヌ川の河岸
ルイ14世はフランス王家の全盛期を築いて太陽王と呼ばれましたが、周辺諸国と戦争を繰り広げて財政が悪化して増税を繰り返しました。1775年にルイ16世が即位すると、アメリカ独立戦争が勃発してフランスも参戦しますが、多額の戦費により経済危機に陥り財務長官ネッケルが罷免されました。ルイ16世は1789年に貴族や聖職者のほか民衆が参加する三部会を開いて増税に対して民意を問いますが、ルソーやモンテスキューに代表される啓蒙思想に影響を受けた民衆は自由や権利を主張して反発、民衆がバスティーユ監獄を襲撃してフランス革命に発展しました。
フランス革命
この時代は冷害による農作物の不作が続いており、バスティーユ監獄の襲撃を聞いた地方の農村でも一揆が頻発するようになりました。パンを求める民衆はヴェルサイユ宮殿に行進して取り囲み、国王にパリ移転を要求してルイ16世はパリに幽閉されることになりました。1791年に妻マリーアントワネットの強い勧めでパリを抜け出しますが、途中で捕縛されてパリに連れ戻されました。この事件で民衆は国王が国民を見捨てたと憤るとともに、王政を敷く周辺諸国は自国に革命の波が飛び火することを危惧して、1792年にフランス王室を救う目的としてフランス革命戦争に発展します。
第一共和政への移行
フランス革命戦争では諸外国の侵攻に対抗するために、フランス各地から義勇兵が集結するようになりました。この時のマルセイユの義勇軍の歌が現在のフランス国歌となります。やがてルイ16世は王位を剥奪されて王政から共和制に移り変わると、ダンプル塔に幽閉されていたルイ16世は国家反逆罪としてコンコルド広場で処刑されました。国王を処刑した議会は、改革を推し進めるジャコバン派と穏健的なジロンド派が対立するようになり、ジャコバン派マクシミリアン・ロベスピエールはジロンド派の反革命派の多くを処刑し、ルイ16世の妻マリーアントワネットもコンコルド広場で処刑されました。しかし行き過ぎたロベスピエールの恐怖政治に対して議会は反発し、ロベスピエールは処刑され1795年の共和国憲法の制定によりフランス革命は終わりました。
ルイ14世
朕は国家なりと発言したフランス王家の全盛期を築いた太陽王ですが、周辺諸国との度重なる戦争で財政悪化を招き増税を繰り返しました。
ルイ16世
マリーアントワネットの夫で、パリから抜け出す途中で捕縛され、国家反逆罪としてコンコルド広場で処刑されました。
マリーアントワネット
悪名高い王妃として描かれることが多く、食に困る民衆に対して「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したと創作されています。
コンコルド広場
凱旋門から延びるシャンゼリゼ通りにある広場で、エジプトから贈られたオベリスクが聳えます。ルイ16世やマリーアントワネットなどが処刑されました。
ナポレオン戦争と第二共和政
フランス革命で危機感を覚えた周辺諸国は、革命を鎮圧するために軍隊を派遣してフランス王政を支援しましたが、1793年にルイ16世が処刑されてフランスは共和制を樹立しました。ロベスピエールによる恐怖政治を経て1795年に5人の総裁による総裁政府が設立されますが、国民は強い指導者を求めていました。1799年に頭角を現していたナポレオン・ボナパルトは総裁政府にクーデターを起こして実質的な支配者となると、独裁的な総領政府を樹立しました。ナポレオンは1804年にフランス皇帝に即位して各地で勝利を収めましたが、ロシア遠征で失脚しました。フランスは王政が復活しますが、1830年の七月革命でベルギーなどが独立し、1848年の二月革命が各地に飛び火して諸国民の春と呼ばれる状況を引き起こしました。
ナポレオン1世
1804年にフランス皇帝に即位してヨーロッパ各地で戦争して勝利を収めていきます。
エトワール凱旋門
ナポレオン1世は、1805年のアウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシアに勝利したことを記念して1836年に凱旋門を建設しました。
パリ大改造
ナポレオン3世の時代にオスマンによりパリ大改造が推進されました。この最大の成果は技師ベルグランが担当した上下水道で、水源の確保と水道の整備を進め現在でも使用されるパリの下部構造を建造しました。また、上部構造ではブローニュの森などの公園の整備、古い路地や行き止まりの小路を撤去して幅の広い道路建設など都市計画が進められました。セーヌ川の中洲であるシテ島も古い民家が密集する人口過密地帯でしたが、ノートルダム大聖堂などの一部を残して撤去され、公共建築地区に生まれ変わりました。新しいオペラ座も1862年に着工されて1875年に完成しています。
シャンゼリゼ通り
現在はパリの中心部とされているエトワール広場は凱旋門を中心に放射状の大通りを配置しており、そのうちの1つがシャンゼリゼ通りです。
エッフェル塔
1889年にはフランス革命百周年を記念して、ギュスターヴ・エッフェルがパリ万国博覧会に併せて高さ324メートルの塔を建設しました。
ドイツ軍の占領と解放
1939年にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、1940年にはパリがドイツ軍に占領されました。フランス政府は降伏してヴィシーによるドイツ傀儡政府が作られました。ノルマンディ上陸作戦が遂行されると、1944年にパリでドイツ軍に対する武力蜂起が開始してパリで市街戦が始まりました。ヒトラーはドイツ軍パリ防衛司令官コルティッツ将軍に対してエッフェル塔やルーブルなど主要な施設の爆破を命じましたが、スウェーデンの駐パリ領事ノルドリックの訴えでパリは破壊を免れました。レジスタンスのフランス人部隊はドイツ軍の本部が置かれていたホテルに突入して、4年に渡るドイツ軍の占領からパリは解放されました。
パリ市街
ドイツ軍に占領されたパリではレジスタンスによる地下組織が生まれ、自由主義者や共産主義者に加えて一般市民が加わり抵抗を続けました。
パリ市街
中立国スウェーデンの駐パリ領事ノルドリックは、パリ破壊の中止を訴えてコルティッツがこれを受け入れたためパリは破壊を免れました。