歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

ナンシー

フランス共和国・ナンシーのスタニスラス広場

ナンシーはフランス北部グラン・テスト地域圏にあるムルト=エ=モゼル県の県庁所在地になります。ナンシーは沼地を意味しており、旧市街から沼地を隔てて新市街が築かれ、それらを繋ぐように世界遺産であるスタニスラス広場などの広場が造られました。ナンシーは文化面でも優れ、銘菓マカロンやアールヌーヴォーが発祥しています。

概要

面積
15.01 km2
標高
212 m
人口
10.52万 (2015年)
地図

歴史

ナンシーは、ロレーヌ公国の首都として栄えました。ロレーヌ公フランソワ3世がマリア・テレジアと結婚するために手放した地をポーランド王スタニスラスが得て、世界遺産に登録されているスタニスラス広場、カリエール広場及びアリアンス広場が造営されました。また18世紀から19世紀にかけて銘菓マカロンやアールヌーヴォーが誕生しています。

ロレーヌ公国の首都ナンシー

ナンシーは11世紀のロレーヌ公ゲラルト1世が城を建てたことに始まります。その後ナンシーはロレーヌ公国の首都して栄えました。シャンパーニュ伯継承戦争が起こると1218年にロレーヌ公テオバルト1世が支配しました。カトリックとプロテスタントの宗教戦争である三十年戦争により17世紀に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世により町は放火され徹底的に破壊されました。

ハプスブルク家の介入

1474年にブルゴーニュ公シャルル(突進公)は、領地のブルゴーニュとフランドルが分断しているため、フランス王家に対してブルゴーニュ戦争を起こしました。1477年にナンシー郊外で激突した両者は、ブルゴーニュ公シャルルの敗死で幕を閉じ、やがてブルゴーニュ公からフランドルを継承したハプスブルグ家が台頭することになります。

戦争の惨禍

戦争の惨禍

ナンシー出身の銅版画師ジャック・カロが三十年戦争でプロテスタントが捕らえられて拷問を受けた様子を製作しました。

フランス・ナンシーのナンシー大聖堂

ナンシー大聖堂

16世紀後半に流行した疫病の守護神として聖セバスチャンを祀る教会が前身で、1760年頃までに再建されました。

ロレーヌ公スタニスラス

スタニスワフ1世レシチニスキ(スタニスラス)は、1704年にスウェーデン王カール12世によりポーランド王に即位しました。しかしスウェーデン、ロシア、オーストリアに挟まれるポーランドは各国の思惑に翻弄されて王位が入れ替わり、スタニスラスは2度ポーランド国王に即位しています。1725年に娘マリアがルイ15世と結婚してフランス王妃になると、スタニスラスはフランスに依存するようになり、こうした中でルイ15世は、ロレーヌ公フランソワ3世(のちの神聖ローマ皇帝フランツ1世)がオーストリア女帝マリア・テレジアと結婚することを認める代わりにロレーヌ公国とバル公国の王位を放棄させてスタニスラスに譲位しました。

スタニスラス広場

1737年にスタニスラスがフランスへ亡命してロレーヌ公となると、ナンシーの街の景観が整えられていきました。1756年に完成したスタニスラス広場は、ナンシー出身のエマニュエル・エレが設計した広場で、バロック様式の市庁舎や裁判所、劇場などの公共性の高い建物が集約されました。スタニスラス広場、カリエール広場及びアリアンス広場は1983年に世界遺産に登録されています。スタニスラスが1766年に死去すると、ロレーヌ公国はフランス王国に併合されましたが、ナンシーはそのまま州都であり続けました。

フランス・ナンシーのスタニスラス凱旋門

スタニスラス凱旋門

スタニスラス広場とカリエール広場を繋ぐ街道にある凱旋門で、1753~55年にかけて建設されました。

フランス・ナンシーのスタニスラス広場ネプチューンの噴水

ネプチューンの噴水

スタニスラス広場にはロココ様式の金属細工で彩られた鉄柵門が6カ所置かれ、その前にはシンボルとなるネプチューンの噴水が置かれています。

マカロンの発祥

ナンシーはマカロン発祥の地とも言われています。マカロンはイタリアのメディチ家の令嬢カトリーヌ・ド・メディシスがフランス王室のアンリ2世に嫁いだときに伝えられたと言われます。マカロンは戒律が厳しく肉を食べることが禁じられていたナンシーのベネディクト会修道院において、アーモンドなどをふんだんに使い栄養価を高めたマカロンが作られて食べられていました。

フランス革命とマカロン

修道院だけで作られていたマカロンでしたが、1789年にフランス革命が起こるとナンシーでも1790年にナンシー駐屯軍による反乱(ナンシー事件)が起こるなど混乱し、キリスト教は弾圧されて教会が閉鎖される事態になりました。修道女のエリザベスとスザンヌは町医者に保護され、彼女らはお礼としてマカロンを作り町で売るようになり、ナンシーはマカロン発祥となりました。

マカロン

マカロン

メディチ家の令嬢カトリーヌ・ド・メディシスがフランス王室のアンリ2世に嫁いだときに伝えられたと言われます。

フランス・ナンシーのメゾン・デ・スール・マカロン

メゾン・デ・スール・マカロン

修道女エリザベスとスザンヌが作り始めたマカロンのレシピを受け継いだマカロン専門店で、200年以上の歴史があります。

ナンシーの黄金期

ドイツ統一を目指すプロイセンとフランスが戦う普仏戦争が終結すると、1871年のフランクフルト条約によりアルザスとモゼル県はドイツに併合され、ムルト=エ=モゼル県にあるナンシーはフランス領に留まることになりました。これによりドイツ市民となることを拒んだアルザス人やモゼル人の実業家や知識人たちはナンシーに移住するようになりました。15世紀からガラス工芸が盛んなナンシーは、19世紀後半に新たに鉄鋼業が盛んになり1870年代から1900年代まで急激に人口が増加して黄金期を迎えました。

フランス・ナンシー駅

ナンシー駅

18世紀後半の産業革命の波が訪れたことで、ナンシーには鉄道が敷かれて19世紀後半には新たに鉄鋼業が盛んになりました。

フランス・ナンシー中央市場

ナンシー中央市場

19世紀後半に新たに鉄鋼業が盛んになり急激に人口が増加し、1852年には中央市場が建造されるなどナンシーは黄金時代を迎えました。

アールヌーヴォー発祥

19世紀末から20世紀初頭にかけて、ナンシーでは新しい芸術アールヌーヴォーが生まれました。アールヌーヴォーとはヨーロッパを中心に流行した芸術運動で、アール(新しい)ヌーヴォー(アート)を意味します。花などの植物をモチーフに曲線を組み合わせた装飾と、鉄やガラスなどの素材を積極的に取り入れたところに特徴があります。華やかなデザインでしたが、第一次世界大戦による経済的な困窮や価値観の変化により、装飾性より機能的で実用性があるものが好まれるようになり、予算や時間がかかるアールヌーヴォー様式は衰退していきました。

フランス・ナンシーのマジョレル邸

マジョレル邸

19世紀末から20世紀初頭にかけて流行したアールヌーヴォー様式の高級家具を製作していた職人ルイ・マジョレルの邸宅です。

アールヌーヴォー

アールヌーヴォー

植物をモチーフに曲線を組み合わせた装飾が特徴で、産業革命後に都市化が進んだことで生活から自然が遠のいたことで生まれました。