歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

セーヌ=エ=マルヌ

フランス共和国・セーヌ=エ=マルヌのフォンテーヌブロー宮殿

セーヌ=エ=マルヌはパリ郊外のイル・ド・フランス地域圏に属する県です。セーヌ川とマルヌ川に由来して名付けられました。フォンテーヌブロー宮殿と庭園としてユネスコの世界遺産に登録されています。

概要

面積
5,915km2
標高
35 - 150 m
人口
113.8万 (2011年)
地図

歴史

セーヌ=エ=マルヌはシャンパーニュとイル=ド=フランスの一部でほぼ構成されています。ローマに支配されてからシャンパーニュはブドウ栽培が盛んになりワインの産地となり、フォンテーヌブローを含むイル=ド=フランスの一部は美しい泉がある静かな森でした。フランス王家はフォンテーヌブローを狩りの場として、のちにフォンテーヌブロー宮殿が建設されました。フォンテーヌブロー宮殿と庭園は1981年に世界遺産に登録されています。

自然豊かなワインの産地

セーヌ=エ=マルヌを構成するシャンパーニュ方面は、古くはレミ族が住んでいました。ローマのユリウス・カエサルによるガリア遠征でフランス全土がローマの支配下になると、シャンパーニュではブドウ栽培が行われたことで現在に至るまでワインの産地となりました。またイル=ド=フランスの一部にあたる地域は、美しい泉を意味するフォンテーヌブローの森が広がる静かな地域で、広大な森の中に泉と小さな集落しかないのどかな地域でした。

王家のための狩猟場

パリに近く静かな森が広がるフォンテーヌブローの森は、王家のための狩猟場として利用されるようになりました。狩りのための館がいくつも建てられ、ルイ7世は小さな礼拝堂を建造しました。このように閑静なフォンテーヌブローをルイ9世は高く評価して無人の土地と呼び、別邸のほか病院などを整備しました。

フランス・セーヌ=エ=マルヌ

セーヌ=エ=マルヌ

のどかで自然豊かな地域で、ローマの支配下にシャンパーニュではブドウ栽培が行われたことで現在に至るまでワインの産地となりました。

フランス・セーヌ=エ=マルヌのモレ=シュル=ロワン

モレ=シュル=ロワン

セーヌ川が流れている地域で、王家のための狩猟場として利用されるようになり、狩りのための館などがいくつも建てられました。

フォンテーヌブロー宮殿

1528年にヴァロワ朝フランス国王フランソワ1世は、レオナルドダヴィンチなどイタリアから多くの芸術家を招聘して新しいローマの建設を目指してルネサンス様式の大宮殿を建設しました。この大宮殿はフォンテーヌブロー宮殿と名付けられ、歴代の国王たちもルネサンス様式の豪華な宮殿へと増改築していきました。1789年に起きたフランス革命によりフォンテーヌブロー宮殿は荒廃しますが、皇帝ナポレオン1世がフォンテーヌブロー宮殿を気に入り生活する住まいとして修復し、19世紀のナポレオン3世まで王宮として使用されました。

フランス・セーヌ=エ=マルヌのフォンテーヌブロー宮殿

フォンテーヌブロー宮殿

レオナルドダヴィンチなどイタリアから多くの芸術家が招聘されて、美しい泉がある森に宮殿が建設されました。

フランス・セーヌ=エ=マルヌのフォンテーヌブロー宮殿

フランソワ1世の回廊

イタリアのルネサンス芸術に魅せられたフランソワ1世が創らせた夢の空間で、国王の住居棟と三位一体礼拝堂をつなぐ部分にあります。

宗教改革とフォンテーヌブロー宮殿

1517年にマルティン・ルターが九十五ヶ条の論題を発表してカトリックを批判すると、スイスではルターの影響を受けてカルヴァンが宗教改革を行いました。フランスでカルヴァン派が広まると1562年にユグノー戦争へと発展しました。1598年にフランス王位を継承したカルヴァン派のアンリ4世は、ナントの勅令を出してユグノー戦争は終結しますが、次いで国王となるルイ13世が新教徒弾圧を再開すると、1685年にルイ14世がフォンテーヌブローの勅令に署名してナントの勅令を破棄してユグノーの信仰の自由を否定しました。財を成すことに肯定的な多くのユグノーの職人や商人はフランスを逃れてイングランドやオランダなどに亡命し、フランスの商工業の発達が阻害されました。

アンリ4世

アンリ4世

1598年にフランス王位を継承し、ナントの勅令によりユグノーを認めたことでユグノー戦争は終結しました。

ルイ14世

ルイ14世

フォンテーヌブローの勅令に署名してナントの勅令を廃止したため、ユグノーの職人はフランスを離れてフランスの商工業の発達が阻害されました。

ナポレオンとフォンテーヌブロー宮殿

1789年にブルボン朝の絶対王政を倒したフランス革命によりフォンテーヌブロー宮殿は荒廃しますが、のちに皇帝に即位したナポレオンはフォンテーヌブロー宮殿を気に入り修復と改修を行いました。1807年にスペイン宰相マヌエル・デ・ゴドイはフォンテーヌブローを来訪し、ナポレオンとの間にフランスの大陸封鎖に対する支援を取り付けるフォンテーヌブロー条約を結びました。

ナポレオン1世

ナポレオン1世

ヨーロッパを席巻した皇帝ナポレオンはフォンテーヌブロー宮殿を住まいとし、19世紀のナポレオン3世まで王宮として使用されました。

フランス・セーヌ=エ=マルヌのフォンテーヌブロー宮殿

フォンテーヌブロー宮殿

ロシア遠征で失敗したナポレオンは、フォンテーヌブロー宮殿の中庭で近衛将校に対して最後の別れの儀式を執り行いました。