イヴリーヌ
イヴリーヌ県は、フランスのイル=ド=フランス地域圏に属するパリの西に位置する県です。かつてのセーヌ=エ=オワーズ県が解体され1964年に新設されました。県庁所在地のヴェルサイユにあるヴェルサイユ宮殿は、フランス王家が栄華を極めた栄光のシンボルとして1979年に世界遺産に登録されています。
概要
- 面積
- 2,284km2
- 標高
- 150 m
- 人口
- 143.7万 (2019年)
- 地図
歴史
森林地帯のイヴリーヌの歴史が動き出すのは、12世紀にルイ6世がサン=ジェルマンに城を建てたことに始まります。フランス王国を受け継ぐ多くのが王族が誕生した場所で、一時的に宮殿としても使用されました。1682年からはヴェルサイユ宮殿が政治の中心となりました。ヴェルサイユ宮殿は1979年に世界遺産に登録されています。
フランス王家とイヴリーヌ
パリ西部のイヴリーヌはイヴリーヌの森から名付けられたように古くから森深い森林地帯でした。紀元前1年世紀のユリウス・カエサルによるガリア遠征でイヴリーヌを含むフランス全土がローマの支配下になりました。ローマ帝国は313年にミラノ勅令によりキリスト教を公認して392年に国教したため、8世紀までにイヴリーヌの地域にも教会や修道院が建てられています。
フランス王家の城
サン=ジェルマンには1124年にルイ6世がシャトー・ヴィユーを建造し、その下にアンリ2世が16世紀にシャトー・ヌフを建造しました。サン=ジェルマン=アン=レー城は1689年に当時のフランス国王ルイ14世がヴェルサイユに移り住むまで王の居城となり、第一次世界大戦の敗戦国オーストリアとサン=ジェルマン条約が結ばれました。
イヴリーヌ
古くから森深い森林地帯で、自然豊かな土地です。
サン=ジェルマン=アン=レー城
ルイ14世がヴェルサイユに移り住むまで王の居城となり、第一次世界大戦の敗戦国オーストリアとサン=ジェルマン条約が結ばれました。
ヴェルサイユ宮殿とフランス王家
ヴェルサイユ宮殿は、1661年にフランス王ルイ14世が本格的に造営を開始して1682年に完成したフランス王室の宮殿です。1624年にルイ13世が建てていた狩猟の館を建築家ル・ヴォーが手掛けて建て直されました。ブルボン朝フランス王国の宮殿はサン=ジェルマン、フォンテーヌブローにもありましたが、1682年からヴェルサイユ宮殿に機能を移してからはフランス革命の勃発する1789年まで一時期を除いて政治の中心が置かれました。パリから20キロ離れたヴェルサイユでの政治は、政治の実権を貴族や聖職者から国王に集約する意味もありましたが、パリの民衆から国王が遠い存在となりました。1789年にはパリの民衆がパンを求めてヴェルサイユ行進を行い、国王ルイ16世と王妃マリーアントワネットをパリに連れ戻す事件が起こりました。
ヴェルサイユ宮殿
フランスの繁栄の象徴となる宮殿で、バロック美術の集大成となりました。
ヴェルサイユ宮殿
王室礼拝堂は毎朝国王は家族とともに王室礼拝堂へ赴き二階の王室特別席でミサに出席し、結婚式も執り行われました。
ヴェルサイユ宮殿と庭園
1667年から造園家アンドレ・ル・ノートルが設計し、巨大な宮殿の大きさに合わて約40年かけて1400もの噴水がある広大な庭園が造営されました。
ヴェルサイユ庭園
幾何学的に配置されたフランス式庭園の最高傑作となりました。
ドイツとヴェルサイユ宮殿の関係
ヴェルサイユ宮殿はブルボン朝フランス王国で首都機能を持ち、1871から1879年までの第三共和政時代にも同様の役割を果たしました。それ以降も宮殿はフランス国会開会の際に議場として利用され憲法改正の採択が行われています。ナポレオン3世がプロイセンのビスマルクの挑発に乗せられた普仏戦争で一方的に敗北を喫すると1871年にヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム1世が即位しました。
ヴェルサイユ体制
1914年に勃発した第一次世界大戦は、1918年にフランスを含む連合国が勝利して終結しました。敗戦したドイツは1919年に連合国とヴェルサイユ宮殿鏡の間でヴェルサイユ条約に調印しました。ドイツは領土の割譲と植民地の放棄のほか多額の賠償金を払うなど厳しい条件を突き付けて屈辱的を晴らす形になりました。なお第一次世界大戦を踏まえヨーロッパ諸国が平和を保とうとする整備をヴェルサイユ体制と呼びます。
ヴィルヘルム1世の戴冠式
普仏戦争でフランスは敗北し、ヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム1世が即位しました。敵国の宮殿での戴冠式は屈辱を与えました。
ヴェルサイユ宮殿
鏡の間はルブランとマンサールが手がけた有名な部屋で、第一次世界大戦で敗れたドイツはヴェルサイユ宮殿で屈辱的な条約に調印しています。