リール
リールはフランス北部の都市でベルギーと国境を接するオー=ド=フランス地域圏のノール県の県庁所在地です。フランス第4の都市であり旧市街の歴史地区はフランスとフランドルの見事な建築群が見られます。リール市庁舎と鐘楼は1999年にベルギーとフランスの鐘楼群として世界遺産に登録されています。
概要
- 面積
- 34.8km2
- 標高
- 18~46m
- 人口
- 23.27万 (2015年)
- 地図
歴史
リールは古くから毛織物産業が盛んなフランドルの工業都市として発展しました。フランス、イングランド、オーストリア、ドイツなどの係争地として度重なる侵略を受けながらも経済的に豊かな都市であり続けました。リールの象徴であるリール市庁舎と鐘楼は1999年にベルギーとフランスの鐘楼群として世界遺産に登録されています。
ローマ支配からフランドル伯領
リールは、古代ローマ時代のガリア遠征によりローマ支配下に置かれました。ローマ人は島状地を意味するインスラと名付け、フランス語で島を意味するリールと呼ばれるようになりました。フランク王国カール大帝がフランス、ドイツ、イタリアなどを制圧してリールはフランク王国の支配下となりますが、843年にヴェルダン条約が締結されて王国領が東フランク王国、西フランク王国、中部フランク王国の3つに分割されると、フランドルは中部フランク王国の支配下となります。
毛織物の産地
リールは7世紀中期から都市化が進められ、毛織物を中心とする交易により繁栄してフランドルの中心都市に成長しました。862年にボードゥアン1世が西フランク王シャルル2世の娘でフランドルを所領としていたジュディットと結婚して初代フランドル伯になり、870年のメルセン条約で西フランク王国の支配下に組み込まれました。
カール大帝
ヨーロッパを席巻したフランク国王で、フランス、ドイツ、イタリアなどを制圧してリールはフランク王国の支配下となりました。
リール大聖堂
11世紀に建造された聖ペテロ教会が始まりで、フランス革命で大きな被害を受けましたが、1854年に再建が始められました。
イギリスとフランスの係争地
ヨーロッパで最も豊かなフランドルは、独立性が高く王国に匹敵する地域でした。フランドルではイングランドから羊毛を輸入して毛織物に加工して輸出して莫大な富を得ていたため、フランドル伯ギーは娘をイングランド王に嫁がせようとしました。これに憂慮したフランス王フィリップ4世は1302年にフランドルに進軍してギーを捕えて1304年から1369年までフランス王国領に取り込みました。
ハプスブルク家の所領
フランドルはフランス王が重い税を課したため1328年に都市の商工業者の反乱が発生しました。フィリップ6世は厳しく弾圧したため毛織物業者はイギリスに移り、フランドルはイギリスとフランスの係争地として百年戦争の一因ともなりました。1384年にフランドル伯ルイ2世が死去すると、娘マルグリットの夫のブルゴーニュ公フィリップとの共有地となり、ヴァロワ朝フランス王国と対抗するようになりました。1477年にブルゴーニュ公シャルル(豪胆王)がナンシーの戦いで戦死するとフランスの圧力が高くなり、シャルルの一人娘マリーがハプスブルグ家マクシミリアン1世と結婚して1477年からフランドルはハプスブルク家の所領となり、1579年からスペイン=ハプスブルグ家が統治しました。
フィリップ4世
端麗王と呼ばれたフランス王で、1302年にフランドルに侵略して盤石なフランドル支配を目指しました。
マクシミリアン1世とマリー
シャルルの一人娘マリーがハプスブルグ家マクシミリアン1世と結婚し、1477年からフランドルはハプスブルク家の所領となりました。
リール市庁舎の鐘楼
リール市庁舎の時計塔は、リール市内にあるリール市庁舎の104メートルの高さを誇る時計台です。フランドルの繁栄を示すように1463年からおよそ100年かけて造られました。鐘楼はフランドルの伝統的な建築を継承しつつも建造当時に世界的な流行を見せていたアール・デコ様式で建てられています。
リール市庁舎の鐘楼
鐘楼の上層部に登るとカリヨン(組み鐘)と呼ばれる複数の鐘があり、鍵盤を使用して音楽を奏でることができます。
リール市庁舎の鐘楼
第一次世界大戦の際に破壊されて1924年から1932年にかけて修復された比較的新しい時計台ですが、世界遺産に登録されています。
宗教改革とフランスの侵攻
16世紀に宗教改革が起こると1555年にリールで初めて新教徒プロテスタントが弾圧されました。旧教徒と新教徒は争うようになり、1580年と1582年にリールで激しい戦いが起こりました。スペイン=ハプスブルク家の支配下にあるフランドルは、1665年にスペイン王フェリペ4世が死去すると、フランス王ルイ14世の孫に継承権があると主張しました。1667年にネーデルラントに侵攻したフランス軍はリールを占領しました。
スペイン継承戦争
リールを占領したルイ14世は、セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン設計により1668年から1674年にかけてリール城塞を建設しました。1700年にスペイン王カルロス2世が世継ぎなく死去すると、ルイ14世は自身の孫に継承権があるとして1701年にスペイン継承戦争を起こしました。リールの要塞は1708年に攻略されて1713年の講和条約(ユトレヒト条約)の締結までオーストリアなどヨーロッパ同盟の支配下に置かれ、1714年のラシュタット条約によりオーストリア=ハプスブルグ家の所領となりました。
ルイ14世
海外植民地の拡大に努めて盛んに侵略戦争を起こしました。ルイ14世はフランス最盛期を築いたことで太陽王と呼ばれました。
リール城塞
ヴォーバンの設計で建造された星形の城塞で、スペイン継承戦争では1708年にオーストリアなどヨーロッパ同盟に攻略されました。
工業都市リールの繁栄
1789年に始まるフランス革命により絶対王政が廃止されると、周辺国は民衆による革命が飛び火することを恐れてフランス革命戦争を起こしました。リールはフランス王国に併合されますが、敵国と対峙する戦線に位置していたことでオーストリアにより包囲戦されグラン・プラスなど街は砲撃に晒されて大きな被害を受けました。リール市民は降伏せずに勇敢に戦い抜き撃退することに成功すると、繊維工業を主体に急速な工業発展を遂げて19世紀末の都市人口は同世紀初頭の3倍以上に跳ね上がりました。
ドイツの占領と解放
第一次世界大戦では1914年から1918年までリールはドイツに占領されました。第二次世界大戦でもドイツ占領下に置かれましたが、現在のフランス政治体制で最初の大統領となるリール生まれのシャルル・ド・ゴールがドイツ占領下のフランスを率いてフランスを解放しました。リールの経済は1929年の世界恐慌で繊維業、石炭業、金属業の低迷で貧窮に苦しみましたが、交通網の改善や観光業の勃興により活気を取り戻してフランスでも指折りの経済都市になりました。
シャルル・ド・ゴール
リール生まれの軍人で、ロンドンで亡命政権の自由フランス政府を樹立し、ドイツ占領からフランスを解放した英雄です。
ジェネラル・ド・ゴール広場
リールにあるグラン・プラスは、シャルル・ド・ゴール将軍に因んでジェネラル・ド・ゴール広場と呼ばれます。