カイロ

カイロはエジプトの首都で、ナイル川下流の東岸に位置します。古くから交通の要所であり、イスラム文化圏の中心的な都市となりました。年間を通じて高温で乾燥した砂漠気候に属します。600以上のモスクと1000ものミナレットが聳え立つ千の塔の都です。
概要
- 面積
- 3,085km2
- 標高
- 23m
- 人口
- 954万 (2017年)
- 地図
歴史
ナイル川の恵みを受けていたカイロは、古くから穀倉地帯として農耕が盛んな地域でした。イスラム勢力が支配するようになり、ファーティマ朝がカイロを建設して都市として成熟していきました。オスマン帝国のエジプト総督ムハンマド・アリがオスマン帝国から独立を目指してイギリスの保護国となりますが、第二次世界大戦を契機としてエジプトは独立を果たしました。
古代エジプト文明
紀元前3000年ごろにナイル川流域にエジプト統一国家が形成し、強大な権力を持つファラオのもとに古王国・中王国・新王国の三期に分けられる王朝支配が続きました。古王国時代はカイロ北部のメンフィスに首都が置かれ、中王国から新王国はテーベ(現ルクソール)などに移されました。カイロはナイル川の河畔にある穀倉地帯を形成していました。

ナイル川
カイロ市域にはアフリカ大陸最長のナイル川が貫流しています。ギリシャ人歴史家ヘロドトスがエジプトはナイルの賜物と称えたことで知られます。
グレコ・ローマン時代
紀元前4世紀にアレクサンドロス大王が征服してヘレニズム国家のひとつプトレマイオス朝が建国し、アレクサンドリアを首都としました。紀元前1世紀頃にローマが介入してくると、女王クレオパトラはカエサルやアントニウスと結んで生き残りを図りましたが、紀元前30年にクレオパトラが自殺してプトレマイオス朝は滅亡してローマの属州となりました。エジプトはローマ帝国の重要な穀物供給地となり、395年にローマ帝国が東西に分裂しすると東ローマ帝国の支配下に組み込まれてビザンツ帝国に継承されました。
イスラム文化
641年にイスラム勢力のアムル将軍がビザンツ帝国のバビロン城を陥落し、ウマイヤ朝が支配するようになり、9世紀にアッバース朝が支配しました。トゥールーン朝、イフシード朝と続いたあと、969年にチュニジアのファーティマ朝がカイロを建設してカリフを称し、アズハル・モスクを創設してイスラム最古の教育施設マドラサを併設しました。1169年にサラディンがアイユーブ朝を興して十字軍の侵攻に備えてシタデル城塞を建設し、13世紀のマムルーク朝が十字軍を撃退しました。

イブン・トゥールーン・モスク
9世紀にアッバース朝のエジプト総督でトゥールーン朝を創始したアフマド・イブン・トゥールーンが建てたカイロで現存する最も古いモスクです。

アル・フセイン・モスク
12世紀のファーティマ朝の時代に創建したモスクで、ファーティマ朝のカリフを務めたフセイン・イブン・アリーのから名付けられました。

シタデル
1176年にアイユーブ朝創始者のサラーフ・アッディーンが十字軍の侵攻に備えて建設した要塞で、1218年に王宮が建てられてエジプトの中心となりました。

ハーン・ハリーリ
14世紀末のマムルーク朝の初代スルタン・バルクークの頃に建設されました。隊商宿(ハーン)を前身として商人が集まる活気ある市場として発展しました。
オスマン帝国の支配
1517年にオスマン帝国のセリム1世の侵攻によりマムルーク朝は滅亡してオスマン帝国領となりました。イスラムの盟主であるオスマン帝国は、エジプト総督を置いてエジプトを統治しました。1798年のナポレオンが進出してくると、トルコ人の支配に対するエジプト人の自立の運動が強まりました。エジプト総督ムハンマド・アリはオスマン帝国からの完全な独立を目指して新王朝を成立させ、エジプトの近代化の基礎を築いた功績で近代エジプトの父と呼ばれるようになりました。
イギリスの植民地
ムハンマド・アリは完全な独立を目指して、1831年から2度にわたりエジプト=トルコ戦争を起こしました。オスマン帝国がイギリスと結んだ不平等条約がエジプトにも適用されると、1859年からスエズ運河の開削を行い10年で工事を完成させました。エジプトは財政難に陥り経営権をイギリスに売却し、翌年にはエジプトが財政破綻してイギリスとフランスの管理下に置かれました。1881年にウラービーが反乱を起こしますが、翌年にイギリスが鎮圧して保護国化を図りました。

エジプト考古学博物館
1835年にエジプト政府が設立した博物館で、1902年にフランス人建築家マルセル・ドゥールニョン設計の建物となりました。古代エジプトの貴重な品が展示されています。

ムハンマド・アリ・モスク
近代エジプトの父・ムハンマド・アリにより1875年に完成しました。巨大なドームと2本の高いミナレットが特徴で、ラバスター・モスクとも呼ばれます。
エジプト革命と自立
1914年の第一次世界大戦でオスマン帝国がドイツ・オーストリア側として参戦すると、イギリスはエジプトを正式に保護国としました。1919年にサアド・ザグルールは独立運動を起こしますが、イギリスはこれを拒否してデモやストライキが起きました。第二次世界大戦後の1922年にイギリスはエジプト王国として独立を認めますが、1952年にエジプト革命で王政は崩壊しました。エジプト革命を指導したナセルが第3次中東戦争でイスラエルに敗北すると、サダト大統領がイスラエルとの共存路線に転換してムバラク大統領がその姿勢を継承しました。ムバラク大統領は2011年のアラブの春で追放されますが、軍政の復活により国内にイスラム過激派の動きを抱えることとなりました。