ルクソール

ルクソールはエジプト南部のナイル川中流域にある都市で、砂漠気候に属して年間を通じて気温が高く乾燥しています。エジプト新王国時代にテーベと呼ばれる都があり、壮大な神殿や王家の墓所など古代エジプトの遺産が数多く残ることから、1979年に古代都市テーベとその墓地遺跡として世界遺産に登録されました。
概要
- 面積
- 416km2
- 標高
- 76m
- 人口
- 132.8万 (2020年)
- 地図
歴史
古代エジプト新王国時代にテーベと呼ばれる首都が置かれました。古代エジプトでは太陽神が崇拝され、太陽が昇るナイル川東岸に首都テーベが置かれ、太陽が沈むナイル川西岸に死者の町として墳墓がつくられました。プトレマイオス朝の頃に破壊され、ローマ時代には瓦礫の山と化しました。
エジプト中王国時代
紀元前2040年頃にメンチュヘテプ2世がエジプトを再統一すると、テーベ(現ルクソール)を首都としました。紀元前1800年頃にアメンエムハト3世がファイユームの開拓を行いました。エジプト中王国が衰退した紀元前1720年頃にアジアの遊牧民ヒクソスが侵攻するようになりました。

カルナック神殿
アメン神と太陽神ラーが結合した最高神アメン・ラーを祀るアメン大神殿を中心とするエジプト最大級の神殿群で、東西540メートル、南北600メートルの周壁で囲まれていました。

カルナック神殿・大列柱室
開花パピルス柱が中央に12本、未開花パピルス柱が122本並びます。15メートルある柱には、王や神などのレリーフやヒエラグリフが彫られています。

カルナック神殿・オベリスク
カルナック神殿には太陽の象徴として建てられたオベリスクが2本残されています。トトメス1世とその娘ハトシェプスト女王のものでアスワンで切り出されました。

カルナック神殿・フンコロガシ像
太陽に例えられた丸い糞を転がすことから神聖な生き物とされました。像を2周すると願い事が叶い、3周で結婚でき、更に多く回ると離婚する謂れがあるようです。
エジプト新王国時代
紀元前1565年頃にイアフメス王がヒクソスを追放してエジプトを再統一しました。紀元前1500年頃にエジプト唯一の女王ハトシェプストが即位して穏やかな治世を行いますが、ハトシェプストの義理の子トトメス3世は、紀元前1486年にシリアやパレスチナに遠征を繰り返して最大領土としました。

ルクソール神殿
カルナック神殿の副神殿として建立された神殿で、カルナック神殿とはスフィンクスが並ぶ3キロに及ぶ参道で繋がれていました。

ルクソール神殿・ラムセスの中庭
ナイル川の増水期にアメン神が妻ムト女神と過ごすためにつくられた神殿で、内部はラムセス2世やアメンホテプ3世の中庭を大列柱室が繋いでいます。

王家の谷
紀元前1520年頃に造営が始まりました。太陽が昇るナイル川東岸を生者の世界として太陽が沈む西岸を死者の世界として王家の墓所が定められました。

ハトシェプスト女王葬祭殿
太陽神アメンラーを祀る葬祭殿です。ハトシェプスト女王は王家の谷に初めて王墓を築いたトトメス1世の娘で、トトメス2世の王妃でもある女性初のファラオです。
エジプト新王国末期
テーベのアメン神を司る神官が権力を持つようになると、アメンホテプ4世は宗教改革を中心としたアマルナ改革を行い、紀元前1364年に首都をテーベとメンフィスの中心付近テル=エル=アマルナに移し、アメンホテプ4世の死後に首都はテーベに戻されました。紀元前1350年にツタンカーメン王が即位したのち、紀元前1279年にラムセス2世が即位しました。ラムセス2世は外征を行い、紀元前1286年にヒッタイトとカデシュの戦いとなりましたが、シリアの要衝カデシュを回復することはできず、紀元前1069年に海の民の侵攻によりエジプト新王国は終わりを迎えました。

メムノンの巨像
アメンホテプ3世の命により建てられたアメンホテプ3世自身の巨像で、かつては座像の後ろにはアメンホテプ3世の葬祭殿がありました。

ツタンカーメン王墓
王家の谷につくられたツタンカーメンの墓は、1922年にカーナボン卿の支援を受けたハワード・カーターにより発見されました。
ヘレニズム時代への移行
紀元前672年にメソポタミアのアッシリアが侵攻したことでエジプトは衰退し、エジプトはアッシリアのほかヌビア(スーダン)のクシュ王国に支配されました。紀元前525年にはアケメネス朝ペルシアのカンビュセスがエジプトに侵攻し、紀元前332年にアレキサンドロス大王がメンフィスを占領してエジプトを制圧、遠征後のプトレマイオス軍により完全に支配されました。