歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

チャナッカレ

トルコ・チャナッカレのトロイの遺跡

チャナッカレは行政区チャナッカレ県の県都であり、トルコ国土の北西に位置します。県域はアジアとヨーロッパにまたがるダーダネルス海峡に隔てられ、古くからエーゲ海と黒海を結ぶ海峡交通の要所として繁栄しました。

概要

面積
1,016km2
標高
126m
人口
119,207人 (2008年)
地図

歴史

ヒサルルクの丘にできたトロイの古代都市は、ホメロスの叙事詩イリアスにあるトロイア戦争の舞台となりました。トロイはローマ帝国により再興されますが、オスマン帝国が支配して完全に破壊されました。オスマン帝国はキリトバヒル城を築いてダーダネルス海峡の監視を行い、第一次世界大戦のガリポリの戦いで連合国軍を破りました。

トロイ(トロイア)の古代遺跡

紀元前6000年頃にヒサルルクの丘に住んだ人びとは、紀元前3000年頃に城塞都市トロイをつくりました。トロイの人びとはアジアとヨーロッパを結ぶダーダネルス海峡の海上交易で発展し、町を作り替えられながら拡張していきました。トロイの町は最初の町を第1市として、300年頃のローマ時代には第9市まで成長しました。

トルコ・チャナッカレのトロイの古代遺跡

トロイの古代遺跡

1870年にドイツの実業家ハインリッヒ・シュリーマンが発見しました。舗装された道は紀元前2500年頃の第2市の頃につくられました。

トルコ・チャナッカレのトロイの古代遺跡・古代の城壁跡

古代の城壁跡

紀元前3000年頃の第1市と紀元前2500年頃の第2市の城壁が残されています。積み上げられた石は新しい時代に比べて小さい印象です。

トルコ・チャナッカレのトロイの古代遺跡・宮殿跡

宮殿跡

紀元前2500年頃の第2市に建てられたとされる宮殿跡で、建物に使用された4500年前の日干しレンガが残されています。

トロイア戦争

紀元前1200年頃にトロイ国王プリモアスの王子パリスがスパルタ王妃ヘレネを略奪したため、スパルタ王がアガメムノンを指揮者としてトロイを攻撃しました。ギリシャ軍は10年にわたり戦いましたが、難攻不落のトロイは落ちることはありませんでした。ギリシャ軍は一計を案じて勇士を忍ばせた巨大な木馬をつくり、和平の贈りものとしてトロイに贈りました。トロイの木馬は城内に持ち込まれ、木馬に潜んでいたギリシャの勇士たちはトロイの王宮を焼き討ちにしてヘレネを助け出しました。

トルコ・チャナッカレのトロイの古代遺跡・トロイの木馬

トロイの木馬

ホメロスの叙事詩イリアスにトロイア戦争の舞台であり、勝利を確信したトロイの兵が木馬を城内に引き入れたことでトロイは急襲されて一夜で陥落しました。

トルコ・チャナッカレのトロイの古代遺跡・トロイの都市跡

トロイの都市跡

紀元前1700年頃の第6市時代の遺跡です。トロイ戦争は紀元前1700年頃の第6市から紀元前1200年頃の第7市の頃に起きたとされています。

ヘレニズム時代

紀元前1000年頃に放棄されたトロイは、ギリシャ人が入植してアテネ神殿などを建てました。この頃は周辺にアケメネス朝ペルシアやアレクサンドロス大王のマケドニア王国、セレウコス朝シリア、共和政ローマなどあり、それらの国の支配を受けることになります。共和政ローマ支配下では反乱が起こり、紀元前85年に共和政ローマのフィンブリアに侵略されて都市は破壊されました。

トルコ・チャナッカレのトロイ遺跡

聖域

紀元前700~85年のトロイ第8市の跡で、神聖な領域として儀式が執り行われました。生贄が捧げられたとも言われています。

トルコ・チャナッカレのトロイ遺跡・

アテネ神殿跡

エーゲ海沿岸のギリシャ都市国家ポリスと文化的に同じで、アテナ神殿などギリシア神話の神殿群が見られます。

ローマ時代

紀元前20年頃からローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスにより、ローマ都市イリウムとして再興が進められました。アテナ神殿や屋内音楽堂のオデオン、浴場のテルマエなどが建設されました。395年にローマ帝国が分裂すると、東ローマ帝国からビザンツ帝国の支配下となりました。トロイは地方都市に成り下がり、15世紀以降のオスマン帝国の時代に完全に放棄されました。

トルコ・チャナッカレのトロイ遺跡・オデオン

オデオン

トロイ第9市に設けられた比較的小規模な屋外音楽堂で、観劇や集会に使われました。ここからアウグストゥス帝とハドリアヌス帝の彫像が発見されました。

オスマン帝国とガリポリの戦い

オスマン帝国の支配下となり、 第一次世界大戦でオスマン帝国がドイツ・オーストリア側で参戦したたため、ダーダネルス=ボスフォラス海峡が同盟国側に抑えられました。1915年にイギリスのウィンストン=チャーチルはガリポリ要塞を攻撃しますが、オスマン帝国ムスタファ=ケマルはこれを退けて初代大統領となる足場を築きました。

トルコ・チャナッカレのキリトバヒル城

キリトバヒル城

オスマン帝国メフメット2世がダーダネルス海峡を航行する船舶を監視するために建てた要塞で、1915年のガリポリの戦いで連合国軍から攻撃を受けました。

トルコ・チャナッカレのガリポリの戦い

ガリポリの戦い

第一次世界大戦でオスマン帝国がドイツ・オーストリア側で参戦したたためガリポリ半島は激戦地となり、トルコ軍、連合軍ともにおびただしい数の犠牲者を出しました。