歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

イスタンブール

トルコ・イスタンブール市街

イスタンブールはボスポラス海峡を挟んでヨーロッパとアジアにまたがるトルコの最大都市で、古くから各地との交易で重要な場所として栄えました。アジア大陸とヨーロッパ大陸の接点にあり、古くから巨大帝国の首都として栄え、西洋と東洋、キリスト教とイスラム教の文化が混ざり合います。

概要

面積
5,343km2
標高
40m
人口
1546万 (2020年12月31日)
地図

歴史

ギリシア人が植民して建設したビザンティオンは、ローマ帝国がコンスタンティノープルと名付けて首都としました。コンスタンティノープルは東ローマ帝国、ビザンツ帝国の首都としてあり続けましたが、オスマン帝国が占領してからイスタンブールと呼ばれるようになりました。

ギリシャ時代

紀元前7世紀にギリシア人が植民してメガラ王ビザスが植民都市ビザンティオンを建設しました。この地は黒海とエーゲ海の海上交通とヨーロッパとアジアを結ぶ陸上交通の要衝として栄え、周辺諸国から狙われることになりました。紀元前5世紀にアケメネス朝ペルシアに服属し、紀元前4世紀にマケドニア王ピリッポス2世に包囲されました。

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)

330年にコンスタンティヌス帝がビザンティオンをコンスタンティノープルと改名し、巨大国家の首都として手狭なローマから遷都しました。コンスタンティノープルは第二のローマと呼ばれ、381年にはコンスタンティノープル公会議が開催されて三位一体の教義が正統とされました。395年にローマ帝国が東西に分裂して東ローマ帝国が成立すると、コンスタンティノープルはギリシャ正教会の本拠地となり、534年ユスティニアヌス1世がローマ法大全をまとめ、537年にアヤソフィア聖堂を完成させました。

トルコ・イスタンブールのアヤソフィア

アヤソフィア

360年にコンスタンティヌス2世が建造して暴動で破壊されたのち、537年にユスティニアヌス1世が再建してギリシャ正教の総主教座が置かれました。

トルコ・イスタンブールのアヤソフィア・モザイク画

アヤソフィア・モザイク画

オスマン帝国時代にモザイク画は漆喰で隠されましたが、トルコ共和国の成立で漆喰が剥がされました。左からユスティニアヌス帝、聖母子、コンスタンティヌス帝です。

トルコ・イスタンブールの地下宮殿

地下宮殿

542年にユスティニアヌス1世が建設した貯水槽で、10万トンの水を貯えました。貯水槽は100カ所以上ありましたが泥で埋もれました。

トルコ・イスタンブールのアヤ・イリニ

アヤ・イリニ

ハギア・エイレーネー教会として建てられましたが、オスマン帝国の時代にトプカプ宮殿の武器庫として利用されました。

イスラム勢力の侵攻と十字軍

10世紀末にシリアでセルジューク朝が勢力を伸ばすと、1071年のマンジケルトの戦いでビザンツ帝国がセルジューク朝に大敗しました。1095年にビザンツ帝国アレクシオス1世はローマ教皇に救援を求め、ローマ教皇はクレルモン会議で十字軍の派兵を決定しました。第1回十字軍はルーム=セルジュークの首都ニケーアを攻略してルーム・セルジューク朝は衰退していきますが、地方有力者のオスマン1世が勢力を拡大して跡を継いだオルハンがオスマン帝国を樹立しました。

オスマン帝国の復興と繁栄

1453年にオスマン帝国メフメト2世がビザンツ帝国を滅ぼすと、首都コンスタンティノープルをイスタンブールと改名して首都をブルサから遷しました。1520年に即位したスレイマンは、ヨーロッパへの進出を積極的に進めました。スレイマンはハンガリーからオーストリアに侵攻してウィーンを包囲し、1538年のプレヴェザの戦いでバルバロッサ率いる水軍が活躍して地中海の覇権を握りました。

トルコ・イスタンブールのトプカプ宮殿・挨拶の門

トプカプ宮殿・挨拶の門

1478年にメフメト2世がマルマラ海に突き出た小高い丘に建てた宮殿で、宮殿に備えられていた大砲から大砲を備えた門を意味するトプカプと名付けられました。

トルコ・イスタンブールのトプカプ宮殿

トプカプ宮殿・議事堂

正義の塔の下には政庁が置かれ、宰相の執務室、会議の間、客間などがありました。御前会議議事堂はオスマン帝国の最高意思決定機関でした。

トルコ・イスタンブールのトプカプ宮殿・テラス

トプカプ宮殿・テラス

第一子の男子は大切に育てられて皇帝になりますが、その他の男子は兄弟同士の権力争いを防ぐため殺されるか一生宮殿に幽閉される生活を送りました。

トルコ・イスタンブールのトプカプ宮殿・ハレム

トプカプ宮殿・ハレム

禁じられたを意味するハレムは宮廷の女性たちの生活の場で、去勢された黒人の宦官のみが入場を許されて、黒人の宦官長がハレムを取り仕切りました。

オスマン帝国の衰退

スレイマンの跡を継いだセリム2世は地中海のキプロス島に侵攻しますが、1571年にヴェネチアなどの連合軍はレパントの海戦でオスマン帝国と激しく戦いました。オスマン帝国は度重なる戦争で財政が圧迫し、第二次ウィーン包囲やロシアのクリミア侵攻に敗れて衰退しました。国内では独立を目指す動きが加速し、ギリシャやエジプトが独立しました。

トルコ・イスタンブールのスルタンアフメト・モスク

スルタンアフメト・モスク

1616年にアフメト1世が建てたモスクで、内部は青いタイルを基調としてブルーモスクとも呼ばれます。世界で最も美しいモスクで6本のミナレットがあります。

トルコ・イスタンブールのグランドバザール

グランドバザール

旧市街にある世界で最も大きく古いバザールで4000店舗あります。

オスマン帝国の滅亡

オスマン帝国皇帝アブデュルハミト2世は急進的な改革を進めましたが、これに反発した青年トルコは1908年に各地で一斉に蜂起し、憲法制定と議会政治を取り付けることに成功しました。国内は不安定な情勢となり、ブルガリアの独立やイタリアの侵攻を招きバルカン半島で独立が相次ぎました。第一次世界大戦ではロシアとの確執でドイツ側に付いて敗戦し、アナトリア半島北部のみの小国となりました。