歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

ヴィチェンツァ

イタリア共和国・ヴィチェンツァのヴィチェンツァ大聖堂

ヴィチェンツァはヴェネト州にあるヴィチェンツァ県の県都です。ルネサンス期の優れた建築家アンドレーア・パッラーディオが手がけた美しい町並みで知られパッラーディオの街と称されています。1994年にヴィチェンツァ市街とヴェネト地方のパッラーディオ様式の邸宅群として世界遺産に登録されました。

概要

面積
80km2
標高
39m
人口
11.22万 (2017年)
地図

歴史

ヴィチェンツァはローマ時代から交通の要衝として発展しました。ヴェネツィア共和国の支配下でイタリアで最も裕福な都市となり、16世紀にパッラーディオ建築群が生まれる土台ができました。パッラーディオの町と呼ばれたヴィチェンツァ市街とヴェネト地方にあるパッラーディオ様式の邸宅群は、1994年に世界遺産に登録されています。

ヴィチェンツァの誕生と発展

ヴィチェンツァは、紀元前3~4世紀にウェネティ人が住んでいました。紀元前2世紀にローマ帝国が制圧すると勝利を意味するヴィチェンティアと名付けられ、湿地帯に城壁を巡らせて城塞都市となりました。489年の東ゴート王国の支配を皮切りに、北イタリアのランゴバルド王国、フランク国王と支配者が変わりましたが、ヴィチェンツァはいずれの時代においても主要都市の一つとして維持しました。

イタリア・ヴィチェンツァ市街

ヴィチェンツァ

メディオラヌム(現ミラノ)とアクイレイアを結ぶポストゥミア街道の重要な宿場町で、大いに繁栄しました。

イタリア・ヴィチェンツァのヴィチェンツァ大聖堂

ヴィチェンツァ大聖堂

3世紀にキリスト教が広がると、4世紀には司教座が置かれて教会が築かれました。

ヴィチェンツァ大聖堂

3世紀にキリスト教がヴィチェンツァに広がると、4世紀には司教座が置かれて小さな教会が建てられました。小さな教会は11世紀にヴィチェンツァ大聖堂となりましたが、1117年のヴェローナ大地震で大きな被害を受けました。1482年にロレンツォ・ダ・ボローニャが設計してゴシック様式の大聖堂に改修を始めますが、長らく工事が続けられ1560年代に完成しました。

イタリア・ヴィチェンツァのヴィチェンツァ大聖堂

ヴィチェンツァ大聖堂

ゴシック様式のファザードは第二次世界大戦の被害で建替えられましたが、パラーディオが設計したルネサンス様式のドーム(クーポラ)の周囲は残されています。

イタリア・ヴィチェンツァのヴィチェンツァ大聖堂

ヴィチェンツァ大聖堂

大聖堂の内部は13世紀にロマネスク様式からゴシック様式に改修されて、大きなステンドグラスなどが追加されて厳かな空間となりました。

ヴェネツィア支配下での繁栄

12世紀のヴィチェンツァは、ヴェネツィア、パドヴァ、ヴェローナなどと商業圏を築いて繁栄して数多くの宮殿や公共施設が築かれました。ヴェローナの名家スカラ家を皮切りにパドヴァ、ヴェローナ、ミラノを経て1404年からヴェネツィア共和国の支配下に入ると、ヴィチェンツァは織物、鋼、宝石産業でイタリアで最も裕福な都市の一つとなりました。この繁栄はのちにパッラーディオ建築が建てられる礎になります。

イタリア・ヴィチェンツァのシニョーリ広場

シニョーリ広場

頂点にヴェネツィアを象徴とする翼のあるライオンとコルコバードのキリスト像が安置される柱が建てられています。

イタリア・ヴィチェンツァのロッジア・デル・カピタニアート

ロッジア・デル・カピタニアート

1571年にパラーディオが設計したスタッコ細工で装飾された壁と3つのアーチが特徴の建物で、ヴェネツィア共和国総督官邸として使用されたました。

パッラーディオの町

1527年に神聖ローマ皇帝カール5世がローマを攻撃したローマ劫掠は、ローマで略奪や暴行の限りを尽くしてローマ=ルネサンスを終わらせました。ルネサンス期の建築家アンドレーア・パラーディオは、ローマからヴェネツィア支配下のヴィチェンツァに移り住み多くの建造物を手掛けました。こうしてヴィチェンツァはパッラーディオの街と称されるようになりました。

パッラーディオ

パッラーディオ

パドヴァ生まれのルネサンス期の建築家で、古典建築に関する研究を進めて建築四書として取りまとめました。

イタリア・ヴィチェンツァのキエリカーティ宮

キエリカーティ宮

1551年に完成したジェローラモ・キエリカーティ伯爵の邸宅(パラッツォ)です。現在は市立博物館で絵画、版画、彫像などが展示されています。

イタリア・ヴィチェンツァのシニョーリ広場

シニョーリ広場

ビサーラ塔の両側にはパラーディオが手掛けた建造物が残ります。左手がロッジア・デル・カピタニアートで、右手がバジリカ・パラディアーナです。

イタリア・ヴィチェンツァのバジリカ・パラディアーナ

バジリカ・パラディアーナ

パッラーディオがラジョーネ宮を改築したもので、2段のドーリア式とイオニア式の白い回廊と飾り窓が特徴的な建造物です。

オリンピコ劇場

パラーディオが最後に手掛けたローマ様式を忠実に再現したオリンピコ劇場は、1580~85年に建てられた世界最古の屋内劇場です。パラーディオは72歳で1580年に死去しますが、建築家ヴィンチェンツォ・スカモッツィに引き継がれて完成しました。同様の劇場はパルマとサッビオネータにもありますが、これらはオリンピコ劇場を手本として作られています。

イタリア・ヴィチェンツァのオリンピコ劇場

オリンピコ劇場

13世紀に建てられた城の中庭に造られており、庭園には19世紀に製作された古代ローマ様式の彫像で飾られています。

イタリア・ヴィチェンツァのオリンピコ劇場

オリンピコ劇場

メインホールはローマ劇場の古代様式を忠実に再現したもので、常設の舞台正面には彫像、柱、凱旋門、錯覚のトリックで飾られています。

イタリアへの編入と現在

1796年にナポレオン率いるフランス軍がオーストリア軍を破ると、カンポ=フォルミオの和約が締結されてヴェネツィア共和国は消滅してヴィチェンツァはオーストリア領とされました。ナポレオン没落後の1814~15年のウィーン会議でイタリア北東部にロンバルド=ヴェネト王国が成立しますが、同国の国王をオーストリア皇帝が兼ねたため、オーストリアによる支配に変わりませんでした。

イタリアへの編入

イタリア統一運動(リソルジメント)が盛んになりウィーン三月革命でメッテルニヒが失脚すると、イタリア各地でオーストリアからの解放を目指して反乱が起きました。1861年に成立したイタリア王国は、1866年のプロイセン=オーストリア戦争でプロイセンを支援したことで、敗れたオーストリアからヴィチェンツァなどの都市を割譲することに成功しました。

ナポレオン1世

ナポレオン1世

ナポレオン率いるフランス軍がオーストリア軍を撃破し、締結されたカンポ=フォルミオの和約でヴィチェンツァはオーストリア領となりました。

イタリア・ヴィチェンツァ市街

ヴィチェンツァ

第一次世界大戦の大規模な戦闘や第二次世界大戦の爆撃で大きな損害を受けましたが、1950年から経済と工業が飛躍的に発展してイタリアで最も裕福な街の一つとなりました。