歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

ヴェネツィア

イタリア・ヴェネツィアのサンマルコ広場

ヴェネツィアはイタリア北部のベネト州の州都で、アドリア海のラグーンに浮かぶ100を超える小さな島々からなります。かつてアドリア海の真珠と評される世界最大の港で、ヴェネツィア商人たちが莫大な富を築きました。カナルグランデをはじめとする運河は、ルネッサンス様式やゴシック様式の宮殿や教会などの建物が並びゴンドラが行き交います。

概要

面積
414.6km2
標高
1m
人口
26.19万 (2017年)
地図

歴史

ヴェネツィアは、ローマ時代にランゴバルド人から逃れた人びとが干潟を開拓して町を造営したことに始まります。ヴェネツィア共和国の首都として地中海や黒海を中心に海洋貿易で栄えた都市で、アドリア海の女王や水の都と称えられます。1987年にヴェネツィアとその潟として都市全体が世界遺産に登録されました。

ヴェネツィアの始まり

ヴェネツィアはローマ時代の以前にヴェネティ人が住んでいたことに由来します。5~6世紀にランゴバルド人がイタリアに侵攻して568年にランゴバルド王国を建国しますが、その過程でランゴバルド人から逃れた人びとがアドリア海沿岸の潟(ラグーナ)の島に町を造営していきました。

都市共和国(コムーネ)

ランゴバルド王国の侵攻により東ローマ帝国がイタリア半島から追い出されて、コンスタンティノープル(現イスタンブール)を本拠とするビザンツ帝国としての性格を強めていくと、ヴェネツィアはビザンツ帝国の支配下になり、やがてヴェネツィアは独自に元首(ドージェ)を市民の中から選出して、実質的には独立した都市共和国(コムーネ)を確立しました。

イタリア・ヴェネツィア

ヴェネツィア

ランゴバルド人の侵攻から逃れた人びとがアドリア海沿岸の潟(ラグーナ)の島に町を造営していきました。

イタリア・ヴェネツィア

ヴェネツィア

ビザンツ帝国の支配下になり、やがてヴェネツィアは独自に元首を市民の中から選出して、実質的には独立した都市共和国を確立しました。

ヴェネチア共和国の誕生

ヴェネツィアはビザンツ帝国の属国でしたが、物資の輸送を行う船と船乗りを多数保有していたため、実質的に独立を保ちました。魚や塩などの生活必需品の交換から始まる交易は、徐々に拡大して地中海交易で重要な役割を果たし、本土からの移住者が増えて人口が増加していきました。ヴェネツィア市民は697年にパオロ・ルーチョ・アナフェストを元首に選び、ヴェネツィア共和国が誕生しました。

ビザンツ帝国に対抗する政治勢力としてフランク王国が台頭すると、フランク王国カール大帝はヴェネツィア一帯を併合しようと、810年に息子ピピンを派遣しました。ピピンは周辺都市を攻め落としますが、ヴェネツィアはラグーナを活かした戦術で撃退に成功しました。

カール大帝

カール大帝

ヨーロッパに大きな勢力を誇りヴェネツィア攻略を目指しましたが、ラグーナを活かした戦術で撃退されました。

イタリア・ヴェネツィアのリアルト橋

リアルト橋

ラグーナの地形を生かしてフランク王国を撃退したことで、ヴェネツィアの都はリアルトに移されてフランク王国との交易も自由化されました。

運河を張り巡らせた町づくり

ヴェネツィアは防衛に優れているラグーナに都を造営していきましたが、ラグーナでの町づくりは容易ではありませんでした。リアルト周辺のラグーナにはブレンタ川とシーレ川が流れ込むため、腐りやすい河川水をアドリア海の海水と循環されなければなりませんでした。そこでヴェネツィアでは運河を張り巡らせて潮の干満を利用して水を循環させる町づくりが行われました。

イタリア・ヴェネツィアの運河

運河

水深が深いところを運河として残し、浅瀬を木杭とイストリア石で弱い地盤を補強し、建物は低く抑えて木材を多用して軽くしました。

イタリア・ヴェネツィアの水道

水道

ラグーナの浮島では井戸を掘っても海水が混じり良質な飲料水が確保できないため、雨水をろ過して貯める貯水槽が建てられました。

聖マルコとサンマルコ寺院

ヴェネツィアは蛮族からラグーナに逃げ込んだ人たちが町を形成しましたが、建国から100年が経過してヴェネツィアが自治を確立するためには守護聖人を得て宗教的に独立する必要がありました。二人のヴェネツィア商人は、828年にエジプトのアレキサンドリアに埋葬されていた聖マルコの遺骸を持ち帰り、元首の住まいであるドゥカーレ宮殿の隣にサンマルコ寺院を建立して、ヴェネツィアの守護聖人として聖マルコを祀りました。宗教的な後ろ盾を確保したヴェネチアは海洋国家として大きく発展していくことになります。

イタリア・ヴェネツィアのサンマルコ広場

サンマルコ広場

海洋国家として大きく発展したヴェネチアの中心で、ナポレオンが世界で最も美しい広場と称しました。サンマルコ寺院はロマネスク・ビザンチン建築の傑作と言われます。

イタリア・ヴェネツィアのサンマルコ寺院

サンマルコ寺院

新約聖書の一部であるヨハネの默示録では聖マルコは有翼のライオンとして描かれていることから、有翼のライオンはヴェネツィア共和国の象徴となりました。

ヴェネツィアの発展

ヴェネチア共和国の元首はドゥカーレ宮殿を住まいとして、国会、行政、裁判のほか牢獄も置かれました。ヴェネツィア市民の中から選ばれる元首は、東西にビザンツ帝国と神聖ローマ帝国の大きな帝国に挟まれながらも国家の舵取りを行い、東はアドリア海や黒海、西はナポリや北欧との自由な交易の拡大を図りヴェネツィア共和国を発展させていきました。

アドリア海の女王

11世紀に強力な艦隊と商船でアドリア海や黒海の海上貿易を独占して東方貿易(レヴァント貿易)の中心として栄え、1096年に始まる十字軍の遠征ではヴェネツィアが船舶を提供して莫大な財を成しました。1202~04年の第4回十字軍では、エンリコ・ダンドロが活躍してヴェネツィアがコンスタンティノープルを占領すると、植民国家ラテン帝国を建国して東地中海までの商業を独占しました。また、1380年には競争国ジェノヴァ共和国をキオッジアの海戦で破りアドリア海の女王と称されるほど繁栄しました。

イタリア・ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿

ドゥカーレ宮殿

細かな彫刻が施された柱が並ぶ宮殿で、ヴェネツィア共和国の総督邸かつ政庁として使われました。

イタリア・ヴェネツィアの溜息の橋

溜息の橋

ドゥカーレ宮殿と監獄を結ぶ橋で受刑者がこの橋を渡りため息をついたため、19世紀のイギリスの詩人ジョージ・バイロンが名付けました。

ヴェネツィアの衰退と滅亡

15世紀中期からオスマン帝国が台頭してくると、ヴェネツィアは内陸に勢力を向けるようになりました。ヴェネツィアはローマ教皇やミラノ公国と争い、1508年にローマ教皇ユリウス2世と対立したことで、フランス王ルイ12世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、スペイン王フェルナンド5世がカンブレー同盟を結んでヴェネツィアと争い、ヴェネツィアは東地中海の領土と勢力圏を失いました。

ヴェネツィアの滅亡

オスマン帝国に対してはスペイン及びローマ教皇と連合艦隊を編成して対抗しますが、1538年にプレヴェザの海戦で敗れて地中海の覇権を失いました。1571年に地中海の覇権を巡りスペインと協力してレパント海戦でオスマン海軍を破り、1687年にはオスマン帝国軍が守るギリシャのアテネを占領して勢力を盛り返しましたが、ペスト(黒死病)の流行で人口の3分の1を失い、新航路発見により世界の貿易の中心がリスボンなどに移ることでヴェネツィアは衰退していきました。1797年にナポレオン率いるフランス軍とオーストリア軍の間でカンポ=フォルミオの和約が結ばれると、ヴェネツィア共和国は滅亡してオーストリア領とされました。

イタリア・ヴェネツィアのサンマルコ鐘塔

サンマルコ鐘塔

1514年に建造された高さ100メートルほどの鉛筆型の鐘塔です。

イタリア・ヴェネツィアのサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会

サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会

17世紀にヴェネツィアはペスト(黒死病)が流行したため、ペストの終息を祈願して建てられました。

イタリアのヴェネツィア併合

ナポレオンが没落して開催されたウィーン会議では、ヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国は復活することはなくロンバルド=ヴェネト王国となりました。同国はオーストリアから派遣された総督が直接統治する傀儡国家に過ぎず弾圧を受けていたため、19世紀になるとイタリア統一運動(リソルジメント)が盛んになりました。ウィーン三月革命でメッテルニヒが失脚すると、ヴェネツィアでも市民が蜂起してオーストリアからの解放を目指しました。1861年に成立したイタリア王国は、1866年の普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)でプロイセンを支援したため、敗れたオーストリアからヴェネツィアを取り上げて併合しました。

メッテルニヒ

メッテルニヒ

オーストリアの政治家でウィーン革命で失脚すると、ヴェネツィアでも市民が蜂起してオーストリアからの解放を目指しました。

イタリア・ヴェネツィア

ヴェネツィア

イタリア王国が普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)でプロイセンを支援したため、1866年にイタリアがヴェネツィアを併合しました。