歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

ミラノ

イタリア・ミラノのミラノ大聖堂

ミラノはイタリア北部のロンバルディア州にある大都市です。ローマ帝国のもとで繁栄を続け4世紀には西ローマ帝国の首都でもありました。ローマ帝国が衰退すると、13世紀にミラノ教皇グレゴリウス10世を輩出した貴族ビスコンティ家、その後スフォルツァ家の統治で洗練された都市へと発展を遂げました。現在のミラノはファッションとデザインの世界的な中心地であり、イタリアの証券取引所がある金融街でもあります。高級なレストランやショッピングスポットが多いことでも有名です。

概要

面積
181.8km2
標高
120m
人口
135.2万人(2017年)
地図

歴史

ミラノはローマの都市メディオラヌムから始まり、西ローマ帝国の首都が置かれました。ヴィスコンティ家によりミラノ公国が成立してスフォルツァ家がレオナルド・ダ・ヴィンチのパトロンとなり、ルネサンスの中心地にになりました。ナポレオンによりミラノ公国が滅亡するとイタリア統一の機運が高まり、やがてイタリアに併合されました。

ローマ支配とキリスト教

古くからケルト人が住んでいたミラノは、紀元前222年にローマが征服してメディオラヌムと称されるようになり、やがてマイランドと呼ばれたことでミラノとなりました。ローマ皇帝コンスタンティヌスが313年にミラノ勅令でキリスト教を公認すると、ミラノ司教アンブロシウスが皇帝テオドシウスに影響を与えて392年にキリスト教を国教化しました。皇帝テオドシウスは395年にローマが東西に分裂するとミラノを首都として、フォロ、劇場、テルマエ、宮殿などを整備しています。

度重なる戦乱

450年頃になるとフン族アッティラ王により略奪を受け、476年にはオドアケルにより西ローマ帝国が滅び、ミラノはオドアケルの王国に支配されます。オドアケルの王国は493年に東ゴート族テオドリックに滅ぼされ東ゴート王国が建国されますが、東ゴート王国も東ローマ帝国により555年に滅ぼされ、その過程でミラノは539年に破壊されました。

イタリア・ミラノ

ミラノ

ローマが征服してメディオラヌムと称されるようになり、やがてマイランドと呼ばれたことでミラノとなりました。

イタリア・ミラノ

ミラノ

ローマが東西に分裂すると、西ローマ帝国の首都がミラノとなり、フォロ、劇場、テルマエ、宮殿などを整備して発展しました。

都市共和国ミラノ

東ローマ皇帝ユスティニアヌスが死去して東ローマ帝国が衰退すると、568年に北イタリアにランゴバルド王国が誕生しました。フランク国王ピピンは756年にランゴバルド王国に遠征し、獲得した領土をローマ教皇に寄進(ピピンの寄進)し、774年にはフランク国王カール大帝がランゴバルド王国を攻撃してイタリア北部はフランク王国に併合されました。フランク国王ルートヴィヒ1世が亡くなると843年のヴェルダン条約により、ミラノは中部フランク王国の支配下となり、北イタリアの中心的な都市共和国(コムーネ)として栄えました。

ロンバルディア同盟

北イタリアの支配をねらう神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は、1158~78年に4度のイタリア遠征を行い1162年にミラノは破壊されました。北イタリアの都市は1167年にロンバルディア同盟を結成して神聖ローマ帝国に対抗し、1176年のレニャーノの戦いでフリードリヒ1世を破りました。フリードリヒ1世は1183年のコンスタンツの和議で都市の自治を認め、ミラノはロンバルディア同盟の中心都市として重要な役割を果たしていきました。

カール大帝

カール大帝

ヨーロッパを席巻したフランク国王です。

イタリア・ミラノのローマ遺跡

レニャーノの戦い

ロンバルディア同盟が神聖ローマ帝国を破りました。

ミラノ公国の成立

都市共和国ミラノはやがて有力者が寡頭支配を行うようになり、14世紀の初めにヴィスコンティ家が権力を掌握しました。ヴィスコンティ家ジャンガレアッツォは神聖ローマ皇帝からミラノ公の地位を買収してミラノ公国を成立させました。ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティは聖母マリアに捧げるために1386年からミラノ大聖堂を建設しました。

イタリア・ミラノのミラノ大聖堂

ミラノ大聖堂

ヴィスコンティ家が1386年に建造を始めて約400年もの歳月をかけて完成した世界最大規模のゴシック建築です。

イタリア・ミラノのパラッツォ・レアーレ

パラッツォ・レアーレ

建築家ジュゼッペ・メンゴーニが手掛けた13世紀ネオクラシック様式の建造物で、1535年まで王宮として機能しました。

スフォルツァ家

ミラノ公国ヴィスコンティ家はロンバルディアから中部イタリアまで支配する大勢力となりましたが、ヴィスコンティ家の男児が断絶して一人娘ビアンカ・マリーアが傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァに嫁いでいたこともあり、1447年にスフォルツァ家が権力を奪取しました。フランチェスコは城塞を改修してスフォルツェスコ城として居城にしました。1796年にフランスのナポレオンがオーストリア・サルデーニャ王国連合軍をサヴォイアの近郊モンテノッテで破ると、サルデーニャ王が休戦申し入れて北イタリアへの通過を認め、ミラノに侵攻したナポレオンはスフォルツェスコ城を攻撃してミラノを征服しました。

フランチェスコ・スフォルツァ

フランチェスコ・スフォルツァ

ヴィスコンティ家の一人娘ビアンカ・マリーアを結婚したことで権力を奪取してヴィスコンティ家からミラノ公を継承しました。

イタリア・ミラノのスフォルツェスコ城

スフォルツェスコ城

要塞を改修して居城としました。城塞の改築にはスフォルツァ家に仕えていたルネサンス期の巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチも携わりました。

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会は、カトリック教会に属する聖母マリアに捧げられた聖堂です。1296年にアルノルフォ・デ・カンピオの設計により大聖堂の建設が進められていましたが、ミラノ公国フランチェスコ・スフォルツァがドミニコ修道院と教会の建設を指示し、建築家ソラーリの設計により1469年にゴシック様式の教会が完成しました。

ルネサンスの中心地

ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァ(イル=モーロ)は多くの学者や芸術家を保護してミラノをフィレンツェと並ぶルネサンスの中心地とすると、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の設計監督を務めたドナト・ブラマンテの設計により、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会のアプス(巨大な円蓋)や教会内部がルネサンス様式に改築されました。

イタリア・ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会

ドナト・ブラマンテの設計によりルネサンス様式のアプス(円盤)が取り付けられました。教会内部もルネサンス様式に改築されました。

イタリア・ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会

1498年には教会の隣にあるドメニコ会修道院の食堂にレオナルド・ダヴィンチの傑作と言われる最後の晩餐のフレスコ画が描かれました。

イタリア戦争

15世紀末から16世紀中期までフランス=ヴァロア朝とハプスブルク家がイタリアを戦場としてイタリア戦争を起こしました。この過程で1499年にフランス王ルイ12世がミラノ公国の継承権を主張して介入したため、スフォルツァ家ルドヴィコ・スフォルツァはミラノから亡命しました。1512年にはルイ12世はラヴェンナの戦いで教皇ユリウス2世の神聖同盟軍との戦いで敗れたため、北イタリアのミラノは主権が回復しました。フランス王フランソワ1世は、1515年にイタリア戦争の再開を宣言してミラノに侵攻しました。ハプスブルク家のスペイン王であり神聖ローマ皇帝のカール5世は反撃を開始してイタリア戦争は激しさを増してミラノは両国の争奪の対象とされました。

カール5世

カール5世

ハプスブルク家のスペイン王で神聖ローマ皇帝です。

フランソワ1世

フランソワ1世

ハプスブルク家と戦いながら絶対王政の強化に努めました。

オーストリア支配

1535年にミラノ公が死去したことで神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)がミラノを継承してスペイン領としました。長くスペイン領として続きますが、1701年から始まるスペイン継承戦争で1707年からオーストリアが支配することとなり、戦後のラシュタット条約で正式にオーストリア領地として認められました。

衛星国チザルピナ

フランスでフランス革命が始まると、ナポレオンは革命防衛のために1796年からのイタリア遠征を開始しました。ナポレオンは北イタリアのオーストリア支配を排除し、北イタリアのロンバルディア、モデーナ、教皇領とヴェネツィアの一部を合わせて、衛星国家チザルピナ共和国を樹立してミラノを首都としました。チザルピナ共和国は1802年にナポレオンを大統領とするイタリア共和国に改称され、1805年にはイタリア王国に改めてナポレオン自ら国王となりました。

イタリア・ミラノのスカラ座

スカラ座

オーストリア支配下の1778年に設立され、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場、ウィーン国立歌劇場と並んで世界三大歌劇場の1つとなりました。

ナポレオン1世

ナポレオン1世

衛星国家チザルピナ共和国を樹立しますが、1802年にイタリア共和国に改称して1805年にはイタリア王国に改めて自ら国王となりました。

イタリア統一運動

ナポレオンが失脚するとミラノ市民は反乱を起こして、ウィーン会議によりオーストリア領に戻りました。ミラノ市民は1848年にミラノの5日間と言われる反オーストリアの運動を起こし、ミラノを支援したサルデーニャ王国がオーストリアと戦いました。サルデーニャ王国はオーストリアに敗れて蜂起は失敗しましたが、イタリア統一運動に傾いたこともあり1859年のイタリア統一戦争でミラノを含むロンバルディアはサルデーニャ王国に併合されることになりました。

カミッロ・カヴール

カミッロ・カヴール

サルデーニャ王国首相でイタリア統一を指導しました。

イタリア・ミラノのマリーノ宮

マリーノ宮

ジェノバの銀行家トンマーゾ・マリーノが建造を始めてルカ・ベルトラミが1892年に完成させました。イタリア統一後にミラノ市庁舎として利用されています。

ミラノの現在

サヴォイア家のサルデーニャ王国国王で初代イタリア国王となるヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の名前を冠するヴィットリオ・エマヌエーレ二世のガッレリアは、1865年から1877年に建造されたショッピングアーケードです。屋根付きの回廊のことをガッレリアと呼び、このガッレリアは世界最古のモールとも呼ばれます。

ファッションの都

ミラノは11世紀から毛織物が発展して、服飾や繊維産業などファッションに関連する産業が盛んになりました。ガッレリアはマリオ・プラダが革製品の店を扱う店を1913年に開店するなど現在においてもプラダ本店をはじめとする有名ブランドの店舗が並び、ファッションの都と称されるミラノを裏付けています。近年は航空産業や自動車産業、精密機器工業なども発達し、ミラノはイタリア最大級の経済地域を形成しています。

イタリア・ミラノのヴィットリオ・エマヌエーレ二世のガッレリア

ヴィットリオ・エマヌエーレ二世のガッレリア

ガッレリア中央の天井ドームの近くにはユーラシア、アジア、アフリカ、アメリカの四大陸を象徴した女神が描かれるフレスコ画が飾られます。

イタリア・ミラノのヴィットリオ・エマヌエーレ二世のガッレリア

ヴィットリオ・エマヌエーレ二世のガッレリア

床にはイタリア最初の首都トリノの紋章である牡牛の紋章があり、この牡牛の急所に踵を付けて3回転すると幸運が訪れると言われます。