マリボル
マリボルは、スロベニア北東部にあるスロヴェニア第2の都市です。ドラヴァ川とポホリェ山地が出会うドラヴァ川谷にあります。マリボルとは城壁を意味し、中世からの街並みや伝統的建造物が残る芸術と自然が融合する心癒される歴史豊かな街です。
概要
- 面積
- 40.98km2
- 標高
- 275m
- 人口
- 9.437万 (2016年)
- 地図
歴史
マリボルは、ピラミダの丘に城が建造されて町が形成されました。神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ3世が支配するとマリボル城を建造するなどハプスブルク家の下で発展しました。交通の要衝としてハンガリー王国やオスマン帝国の侵攻やペストの流行などの影響を受けました。
古代マリボル
マリボルの都市の形成は、古代ローマ時代にスロヴェニア人が築いた町を起源とします。ローマ帝国崩壊後はスラヴ人が定住して、631年にフランク人の商人サモがサモ王国を建国しました。アジア系遊牧民族アヴァール人との抗争が起こると、フランク王国カール大帝がアヴァールに遠征して破り、843年にヴェルダン条約によりフランク帝国に吸収されました。重要な交易路が整備されて1140年にオーストリアのシュタイアーマルク公国に編入されマルブルクと呼ばれました。1147年にはハンガリーからの侵攻に備えるため、神聖ローマ帝国ケルンテン公によりピラミダの丘にブルク・イン・デア・マルクと呼ばれる城が建てられて町が整備されました。
ピラミダの丘
神聖ローマ帝国ケルンテン公によりブルク・イン・デア・マルクと呼ばれる城が建てられて町が整備されました。
マリボル大聖堂(洗礼者ヨハネ大聖堂)
12世紀に建造されて14世紀以降にゴシック様式に改築されました。
ハプスブルク家の統治
ボヘミア王オタカル2世が勢力を拡大してシュタイアーマルクも支配しました。1273年に神聖ローマ帝国皇帝に選ばれたハプスブルグ家ルドルフ1世は、オタカル2世の領土拡大を不当なものとして返還を要求し、オタカル2世はこれを拒否したため、1278年にマルヒフェルトの戦いでオタカル2世を破りました。マルヒフェルトの戦いでルドルフ1世を支持したレオポルド・フォン・ザンネクはハプスブルグ家と関係を強め、子孫はツェリェ伯としてスロヴェニアで最も影響力を持つようになりました。ツェリェ伯ウルリク2世の頃に最盛期を迎えますが、1456年に訪問先のベオグラードで殺害されツェリェ伯は断絶して、領土や財産は神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ3世が引き継ぎました。
フリードリヒ3世
神聖ローマ帝国皇帝としてツェリェ伯からマリボルを引継ぎ、マリボル城を建造するなどマリボルの急速な発展に貢献しました。
マリボル城
フリードリヒ3世は1478年にマリボル城を建造しました。
マリボルの度重なる災難
神聖ローマ帝国皇帝の座を狙うハンガリー王マーチャーシュ1世は、1480年と1481年の2度に渡りマリボルに侵攻して包囲しますが征服することはできませんでした。1532年や1683年にはスレイマン大帝率いるオスマン帝国がマリボルに侵攻し包囲しますが、守備兵と市民が攻撃を耐え抜きました。ヨーロッパ人口を3分の2まで減らしたペスト(黒死病)は、マリボルでも大流行して1646年、1664年、1680年に多くの犠牲者を出しマリボル人口の35%を失いました。
古いぶどうの木(スタラトルタ)
400年以上前からある世界最古のぶどうの木で、ギネス世界記録に登録されています。
ペスト記念柱
グラヴニ広場にはペストの収束を記念して1681年に記念碑が建てられ、記念柱は1743年にジョセフ・ストローブが製作しました。
ハプスブルク家からの独立
1845年にウィーンからトリエステまでの鉄道が開通するとマリボルは急速に発展しましました。1867年に成立したオーストリア=ハンガリー帝国でオーストリア帝国領になりますが、第一次世界大戦に敗北して1918年にセルビアなどと共に歴史的にも文化的にも異なる民族の集合体であるユーゴスラヴィア王国が建国されました。1919年にスロヴェニア軍がグラヴニ広場で、非武装のドイツ人とアメリカの和平代表団を攻撃したマルブルクの血塗られた日曜日事件が起きました。
フランシスコ会教会
18世紀頃に製作されたマリア像が祀られています。
グラヴニ広場
マルブルクの血塗られた日曜日事件が起きてマリボルはスロヴェニア軍の支配下となり、ユーゴスラヴィア王国に属することが明確になりました。
ナチス・ドイツの支配
第一次世界大戦に破れたドイツではヒトラー率いる国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が政権を確立しました。1941年にユーゴ領シュタイエルスカ地方を併合したヒトラーは、マリボル市庁舎で演説を行うなど一時的にドイツの支配を受け、軍需産業の中心地であるマリボルは連合国の徹底的な空襲を受けました。ドイツはスロヴェニアのドイツ化を進めるため、スロヴェニア人の大量追放に着手し、抵抗する者をナチスの強制収容所へと追放してマリボルやグラーツの刑務所で銃殺しました。この出来事はユーゴスラビアのパルチザンが組織される基礎となりました。
マリボル市庁舎
1515に建設されたルネサンス様式で、ナチスのヒトラーが演説しています。
スヴォボデ広場
民族解放を達成したマリボルの記念碑が置かれています。
ユーゴスラビアと独立運動
1945年に第二次世界大戦が終結すると、チトー率いるパルチザンがドイツから解放し、1946年からユーゴスラヴィア連邦人民共和国として社会主義国家を歩み出すことになります。ユーゴスラビアは7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つもの文字を持つ国家と言われ、国内には多くの問題を抱えていました。1980年にチトーが死去すると、それぞれの国が独立を図るようになります。1991年に民族運動や独立運動が発生し、スロヴェニアとセルビア人中心のユーゴスラビア政府との間で十日間戦争が起こりました。国際世論を味方につけたスロヴェニアは戦いに勝利して独立しました。
チトー
ユーゴスラビアを建国に導いた強い指導者でした。チトーが死去すると独立運動などが起こりユーゴスラビアは分裂しました。
マリボル市街
第二次世界大戦で大きな被害を受けましたが、中世の雰囲気を残した美しい町並みが広がります。