ポレッチ
ポレッチは、クロアチア・イストラ郡の都市でイストラ半島西岸にあります。小さなスヴェチ・ニコラ島により港が守られている天然の要害で、ローマ時代に軍事拠点となりました。世界遺産エウフラシウス聖堂を始め中世の町並みを残しており、アドリア海屈指のリゾート地として賑わいます。
概要
- 面積
- 139km2
- 標高
- 29m
- 人口
- 1.67万 (2011年)
- 地図
歴史
イストラ半島西岸に位置するポレッチは、ローマ人が建設した植民都市でした。聖マウルスを守護聖人として礼拝堂が建てられ、その跡地に世界遺産に登録されるエウフラシウス聖堂が建設されました。中世の町並みを残すポレッチは、アドリア海屈指のリゾート地として賑わいを見せています。
植民都市パレンティウム
ポレッチは、紀元前2世紀にローマ人が軍事拠点カストルムを建造したことに始まります。1世紀になり初代ローマ皇帝アウグストゥス帝の時代にはパレンティウムと呼ばれる植民都市となりました。
守護聖人マウルス
3世紀に初期キリスト教のコミュニティが形成され、聖マウルスがパレンティウム司教として宣教を行いました。聖マウルスはローマで迫害を受けて3世紀後半に殉教したと言われ、聖マウルスの遺骨をはじめとする聖遺物は4世紀初めにローマからポレッチに運び込まれました。聖マウルスはポレッチの守護聖人となり、ポレッチの北端にあるローマの邸宅内に建てられた聖マウルス礼拝堂に聖マリウスの聖遺物が納められました。
マラフォル
1世紀にパレンティウムと呼ばれる植民都市となり、2つの神殿が結合したローマ時代建造物が残る広場が造営されました。
ネプチューン神殿跡
紀元1世紀にローマ神話の神ネプトゥヌスを祀るため建てられた神殿の跡地です。
エウフラシウス聖堂
聖マウルス礼拝堂は増改築を繰り返して5世紀にはバジリカ式教会となりましたが、6世紀に教会が損傷したため、当時のエウフラシウス司教は教会を一部利用しながら10年かけてエウフラシウス聖堂を建造しました。ポレッチを統治する東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスは、首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)に聖ソフィア聖堂(現アヤソフィア)を建造するなどビザンツ美術が花開いていました。
エウフラシウス聖堂
聖マウルス礼拝堂が損傷したため、エウフラシウス司教が一部を利用しながら6世紀に建造した初期キリスト教建築とビザンツ美術の傑作です。
エウフラシウス聖堂
聖堂内部には黄金を背景に聖母子のモザイクと呼ばれる初期ビザンツ美術のモザイク画が保存されています。
ヴェネツィア共和国の支配下
ポレッチは、788年からフランク王国の支配を受け、12世紀になるとアクイレイア総主教に支配されました。1267年にヴェネツィア共和国の都市となりましたが、1351年の第三次ヴェネツィア=ジェノヴァ戦争の戦禍で、ポレッチは1354年にジェノヴァの侵攻で破壊されました。
ヴェネツィア共和国の滅亡
人の往来が多い港町のポレッチは、16世紀終わりから17世紀初頭にかけてペストにより大打撃を受けました。ヴェネツィア共和国の都市はいずれもペストの被害を受けて、ヴェネツィア共和国は衰退していきました。イタリア遠征を進めるナポレオンは、オーストリア・サルデーニャ王国連合軍を撃破して1797年にオーストリアとカンポ・フォルミオの和約を結びました。この和約によりヴェネツィア共和国は滅亡して、ポレッチは一時的にフランスに支配下に置かれたあと、1814年にオーストリア=ハンガリー帝国に組み込まれました。
デクマヌス通り
15世紀のヴェネツィア共和国時代に建造された中東の影響を受けた建物が並びます。
スロボデ広場と天使の聖母教会
16世紀終わりから17世紀初頭にかけてペストで多くの人が犠牲となりました。天使の聖母教会はペスト犠牲者を弔うために18世紀に建てられました。
第一次世界大戦から現在
1915年に勃発した第一次世界大戦では、イタリアが三国同盟を破棄してオーストリアとドイツに宣戦布告しました。これによりポレッチは1918年からイタリア王国に併合されました。第二次世界大戦では1943年にユーゴスラビアがポレッチを占有してイタリア系市民は退去してスラヴ人が住むようになりました。第二次世界大戦が終結して社会主義化されたユーゴスラビア連邦が成立すると、ポレッチはユーゴスラビア連邦の構成国クロアチア社会主義共和国に属し、1991年にクロアチアとして独立しました。
ポレッチ市街
イタリアやオーストリアなどの諸勢力の支配を経て、各地と海洋貿易を行うことで多様な文化が形成されていきました。
ポレッチ市街
中世の町並みを残したアドリア海屈指のリゾート地として今も変わりなく賑わい続けています。