バイエルン州
ドイツ南部に位置するバイエルン州は、アルプスに近いドイツ最大の州です。南部と東部のアルトバイエルン、北部と北東部のフランケン、南西部のシュヴァーベンの3つの地域に分けられます。スイス、チェコ、オーストリアの国境に位置することで文化的に発展してイザール河畔のアテネや北のローマと呼ばれました。
概要
- 州都
- ミュンヘン
- 面積
- 70,542km2
- 標高
- 503m
- 人口
- 1,337万 (2022年)
- 地図
特集
ヴィースの涙の奇跡
1738年に農婦マリア・ロリ―がシュタインガーデンの修道士からムチで打たれるキリストの木像を譲り受け、そのキリスト像が涙を流す奇跡を起こしました。
歴史
バイエルンは、フランク王国ザクセン家ハインリヒがバイエルン公に封じられたことに始まります。神聖ローマ帝国の選帝侯の一つであり、バイエルン公から神聖ローマ帝国の皇帝に選出されたこともあります。1806年にナポレオンと同盟して神聖ローマ帝国から離脱してバイエルン王国が建国されると、100年以上にわたり立憲君主制として統治されました。
バイエルン公の誕生と繁栄
バイエルンは、紀元前1世紀にローマ帝国の属州ラエティアとして支配されていたことに始まります。5世紀になると度重なるゲルマン人の侵攻に合わせてゲルマン系バイエルン人が定住します。8世紀になるとカール大帝がバイエルンを征服してフランク王国が支配し、ザクセン家オットー1世の子のハインリヒが947年にバイエルン公に封じられました。
1002年に神聖ローマ皇帝オットー3世が崩御すると、バイエルン公ハインリヒ2世の息子がハインリヒ2世として内乱を制して神聖ローマ皇帝となりました。しかしハインリヒ2世には後継者がおらず断絶して、バイエルン公はヴェルフェン家を経て1180年からヴィッテルスバッハ家が公位を継承することになります。
1313年に神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ7世は、借金のためフュッセンをアウクスブルク司教に質入れしました。借金は返済されることはなく、アウクスブルク司教領の支配下となりました。
フュッセン旧市街
ヴェネチアからアウグスブルクを結ぶクラウディア・アウグスタ街道が結ばれると、フュッセンは中継地としてローマ第三軍団イタリカの部隊が駐屯しました。
フュッセン市博物館
748年に守護聖人となる聖マングが建てた礼拝堂は、850年頃にベネディクト会の聖マング修道院となり、1717年に建替えられて博物館として利用されています。
ハインリヒ2世
1002年に神聖ローマ皇帝オットー3世が崩御すると、バイエルン公ハインリヒ2世の息子がハインリヒ2世として内乱を制して神聖ローマ皇帝となりました。
ホーエス城
アウクスブルク司教フリードリヒ1世は、上バイエルン公ライン宮中伯ルートヴィヒ2世が1291年から建造を進めていたホーエス城を夏の離宮として改築しました。
ヴィッテルスバッハ家による統治
1314年に神聖ローマ皇帝に選出されたヴィッテルスバッハ家ルートヴィヒ4世は、選帝侯の選挙で選ばれた王は同時に皇帝であり、ローマ教皇の承認は必要ないと主張して教皇と争いました。ルートヴィヒ4世はローマでローマ人民の名で皇帝に戴冠しますが、強引な領土拡大政策や教皇との和解に動いたことで1346年に廃位されました。16世紀に宗教改革が起こるとバイエルン公はカトリック側の主力諸侯として戦い、三十年戦争でも活躍して1623年に神聖ローマ帝国の選帝侯の一つとなりました。
ルートヴィヒ4世
ローマ教皇と対立した皇帝です。
オーストリア継承戦争と皇帝位
神聖ローマ帝国の皇帝はハプスブルク家が300年にわたり独占しており、バイエルン公はハプスブルグ家とも姻戚関係を結んでいました。1740年にオーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王を兼任していた神聖ローマ皇帝カール6世が跡継ぎの男子を残さず死去しました。女子は皇帝位に就くことはできませんが、女子のマリア・テレジアが家督を相続しました。
バイエルン公カールは妻がハプスブルク家の出身のため、ハプスブルク家の相続権を主張し皇帝選出に名乗りを上げ、プロイセン王フリードリヒ2世、フランス王ルイ15世の支援などで、1742年に神聖ローマ皇帝に選出されカール7世となりました。これによりハプスブルク家の神聖ローマ皇帝は一時中断しますが、態勢を立て直したオーストリアと講和が結ばれ、1745年にマリア・テレジアの夫のロートリンゲン公フランツ1世が皇帝となり、カール7世は退位しました。
マリア・テレジア
神聖ローマ皇帝カール6世が跡継ぎの男子を残さず死去したため、オーストリア継承戦争となり、皇位は夫のフランツ1世が継承しました。
カール7世
プロイセン王フリードリヒ2世、フランス王ルイ15世の支援などで、1742年に神聖ローマ皇帝に選出されカール7世となりました。
フュッセン旧市街
オーストリア継承戦争で1745年にバイエルンとオーストリアとの間でフュッセン条約が締結されてカール7世は相続請求権を放棄しました。
聖シュピタール教会
オーストリア継承戦争が始まる少し前にフランツ・カール・フィッシャーにより建造が始められ、1749年に完成しました。
バイエルン継承戦争と王国の誕生
1778から1779年にはヴィッテルスバッハ家の王位が一時切れたことでオーストリアのハプスブルク家ヨーゼフ2世がバイエルンの南半分の相続を主張してバイエルン継承戦争が起きました。この戦いではプロイセンのフリードリヒ2世が介入したため失敗し、オーストリアの弱体化が露わになりました。
ナポレオン戦争が始まるとバイエルン公はプロイセンに対する対抗心からナポレオンに味方しました。1806年にナポレオン主導で発足したライン同盟により神聖ローマ帝国が消滅しました。バイエルンはライン同盟に加盟するとともにバイエルン王国となりました。
ヨーゼフ2世
バイエルン継承戦争で破れました。
ホーエンシュヴァンガウ城
12世紀の城を1842年に改修したものです。
ドイツ帝国と狂王ルートヴィヒ
ナポレオンが没落した1815年にウィーン議定書が調印されると、バイエルン王国はドイツ連邦に加わりました。バイエルンはドイツ連邦でプロイセンと並ぶ有力諸邦であり、1835年にはニュルンベルクからフュルトまでドイツで初めて鉄道が開設しました。フランスがプロイセンに宣戦布告して始まった普仏戦争では、バイエルンも参戦してプロイセン側に付きました。これによりドイツは統一されて1871年にドイツ帝国が成立しました。
プロイセン主導でドイツ統一が進められた頃、バイエルン国王ルートヴィヒ2世はロマンチックな中世の騎士道にあこがれ、作曲家ワグナーを保護したほかディズニーランドのシンデレラ城のモデルになるノイシュヴァンシュタイン城などを築城しました。この築城費用をプロイセンから借金していたため、普仏戦争に勝利したプロイセン王ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に推戴する役割を担わされました。ルートヴィヒは精神に異常があり1886年に湖で溺死して狂王ルートヴィヒと言われるようになりました。
ルートヴィヒ2世
狂王と呼ばれたワーグナーのパトロンです。
ノイシュバンシュタイン城
ディズニーランドのシンデレラ城のモデルになりました。
第一次世界大戦から現在まで
1871年にプロイセン王ヴィルヘルム1世を皇帝とするドイツ帝国が成立しました。ドイツ帝国ではバイエルン王国などドイツ諸侯の君主や政府はそのまま残されました。1918年にドイツ帝国が第一次世界大戦で敗北して崩壊すると、キール軍港での水平反乱を契機にドイツ革命が起こりました。革命はバイエルンにも及んでヴィッテルスバッハ家の王政は廃止され、バイエルン共和国としてワイマール共和国を構成することになります。
ワイマール共和国は、第一次世界大戦の賠償金を支払うために紙幣を大増刷したため、ハイパーインフレに陥り国内は混乱して各地で蜂起が発生しました。さらに1929年の世界恐慌により経済が崩壊すると、バイエルン州で政治活動を行う国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党首ヒトラーが台頭します。1933年に大統領に就任してナチス・ドイツが成立すると第二次世界大戦に突入します。ナチス・ドイツはこれに破れて現在へと繋がります。
ミュンヘン
バイエルン州の州都です。
ミュンヘン
南ドイツの経済、文化の中心地となりました。