ザンクトガレン
ザンクトガレンは、スイスのザンクトガレン州にある基礎自治体の州都です。スイス北東部アッペンツェル・アルプスとボーデン湖の間の谷に位置しているスイス東部の中心都市です。標高は700メートルほどでスイスで最も標高が高い都市のひとつであり、冬にはかなりの積雪量があります。
概要
- 面積
- 39.38km2
- 標高
- 669m
- 人口
- 7.548万 (2017年)
- 地図
歴史
ザンクトガレンは聖ガルスが礼拝堂を建て、8世紀に礼拝堂を修道院に建替えて聖ガルスからサンクトガレンと名付けたことに由来します。修道院の修道士たちの生活を支えていた繊維産業は、精緻な刺繍となり世界の刺繍の半分が製造されるまでになりました。16世紀に宗教改革が進められ、修道院の多くが閉鎖に追い込まれました。
ローマ支配下のザンクトガレン
ザンクトガレンがあるスイス東部には、紀元前2世紀末ころにはラエティ人が住んでいました。ローマのユリウス・カエサルがガリア遠征を行いローマの支配下に入ります。395年にローマ帝国は東西に分かれザンクトガレンの地域は西ローマ帝国の支配下となります。476年に西ローマ帝国が滅亡するとゲルマン系ランゴバルドなどが王国を建国しました。
6世紀になるとゲルマン系フランク人が建国したフランク王国が支配します。10世紀に入りマジャル人が東フランク東部に侵攻を始めると927年にザンクトガレンの町を破壊しました。11世紀になるとフランク王国が分裂して東フランク王国となると、ザンクトガレンは神聖ローマ帝国に引き継がれて支配を受けます。
ユリウス・カエサル
「ブルトゥス、お前もか」の共和制ローマ政務官です。
マジャル人
ハンガリーに定住してハンガリー大公国を築いた遊牧民族です。
聖ガルスとザンクトガレン
7世紀にアイルランドの修道士ガルスは、12名の修道士と共にローマを目指しましたが、旅は過酷でスイスやオーストリアに接するボーデン湖に到着した頃には2人だけになりました。ガルスは森で倒れて先に進めなくなると、ガレスの威光に打たれたクマは暖を取るために必要な薪を集め、ガルスは褒美として熊にパンを与えました。こうしてザンクトガレンの町にはパンを持つ熊の紋章が溢れるようになりました。
ザンクトガレン大聖堂
ザンクトガレンを布教の地と定めたガルスは、612年に小さな礼拝堂を建設して布教を行いました。646年にこの地でガルスは亡くなると、フランク王国カール大帝はベネディクト会修道士オトマールにガルスの遺物や遺品の整理を命令し、720年にはガルスの礼拝堂跡地にオトマールを修道院長とする修道院がスイスで初めて建造されました。
ザンクトガレン大聖堂図書館
ザンクトガレン修道院はベネディクト会の修道院として聖書や古典の写本が盛んに行われました。1767年には図書館が併設され、スイス最古で世界最大級の図書館となりました。ザンクトガレン修道院図書館は中世ヨーロッパで知の聖地と言われ、現在も読むことができる約17万冊の蔵書が残されています。豊富で貴重な書物は文字文化の変遷を知る貴重な史料にもなりました。
ガルスと熊
ガレスの威光に打たれたクマは暖を取るために必要な薪を集め、ガルスは褒美として熊にパンを与えました。
ザンクトガレン修道院
720年にはガルスの礼拝堂跡地にオトマールを修道院長とする修道院がスイスで初めて建造されました。
ザンクトガレン修道院
聖オトマールはガルスの威徳を称えて、修道院をザンクト(聖)ガレン(ガルス)と名付け、これが町の名前にもなりました。
ザンクトガレン修道院
1768年にザンクトガレン修道院は建替えられて現在の姿となりますが、後期バロック様式の傑作と言われます。
ザンクトガレン修道院図書館
ロココ様式の美しい内装の図書館で、幾多の火災や戦争でも建物や書物が焼失せずに残されました。
ザンクトガレン修道院図書館
約17万冊もの蔵書がある世界最大級の図書館で、9世紀のザンクトガレン修道院平面図は現存する世界最古の大規模建造物の設計図と言われます。
ザンクトガレンの産業
ザンクトガレン修道院の修道士たちの生活を支えていた繊維産業は、15世紀からザンクトガレンの基幹産業へと発達して19世紀になると精緻な刺繍やレースで広く知られるようになりました。ザンクトガレンの繊維産業は技術・品質が良いことから英仏の欧州を中心として世界中に輸出されました。
刺繍
修道院たちが始めた精巧な刺繍で、世界の刺繍の半分はザンクトガレンで生産され、上流階級の女性のドレスに使われました。
エルカー
栄華を極めた繊維商人は、その富を誇示するためドイツ語でエルカーと呼ばれる出窓を家に取り付け、現在も100カ所以上に残されています。
宗教改革
16世紀にマルティン・ルターによる宗教改革が起こると、スイスでも宗教改革が進められました。チューリヒを拠点としたツヴィングリやジュネーヴを拠点としたカルヴァンが特に重要な役割を果たし、ツヴィングリの親友である詩人で音楽家のヨアヒム・ヴァディアンは1525年にザンクトガレンの市長となり、フランスのナポレオンがスイスに侵攻すると修道院長の権力を剥奪して、ザンクトガレン修道院は1806年に閉鎖されました。
マルクトガッセ
マルクト広場と呼ばれる中心広場です。
ヨアヒム・ヴァディアン
ザンクトガレンでプロテスタントを広め、ザンクトガレンの中心的な広場マルクトガッセに像が建てられました。