歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

ベリンツォーナ

スイス・ベリンツォーナ市街

ベッリンツォーナはスイス南部のティチーノ州の基礎自治体で同州の州都です。スイス国内ではありますがイタリア語圏の都市でフランス語ではベリンゾンと表記されます。旧市街にある3つの城はベッリンツォーナ旧市街の3つの城と防壁・城壁群の名で世界遺産に登録されています。

概要

面積
164.2km2
標高
241m
人口
4.322万 (2018年12月31日)
地図

歴史

ベリンツォーナはイタリア、ドイツ、フランスを結ぶ交通の要衝として、古代ローマ帝国の頃から城塞が築かれました。神聖ローマ帝国やミラノ公国などから侵略を受けることで強固な城塞が建造されました。こうした歴史の中で築かれた3つの城塞は2000年にユネスコ世界遺産に登録されました。

ローマによる支配

ベリンツォーナの古くはケルト系ガリア人の居住地でした。紀元前1世紀にカエサルなどがガリア遠征を行いローマ支配下の属州にすると、ベリンツォーナはイタリア、ドイツ、フランスを結ぶ街道が集まる交通の要衝として城塞が築かれてローマ軍が駐屯しました。ローマ軍の駐屯は短く、城塞は放棄されて早い段階で撤退しています。

要塞都市の形成

ローマ帝国が東西に分かれて西ローマ帝国の支配下になると、4世紀に侵攻を始めたゲルマン人に備えて城壁や監視塔が建造されました。西ローマ帝国が崩壊してランゴバルド王国が支配してからも城塞は強化されて、フランク王国のイタリア侵攻で激しい戦闘が起こりました。

スイス・ベリンツォーナ市街

ベリンツォーナ市街

イタリア・ミラノ北部の山間部にあり、交通の要衝として山間部に城砦が築かれました。軍事的な重要性から強固な要塞都市として発展しました。

神聖ローマ帝国による支配

フランク王国カール大帝は774年にイタリアに侵攻してランゴバルド王国を吸収するとフランス、ドイツ、イタリアの広大な土地を支配しました。フランク王国は交通の要衝であるベリンツォーナの城砦に城壁を巡らして城塞化しました。やがてフランク王国が分裂すると東フランク王国がベリンツォーナを支配下し、東フランク王国を母体とする神聖ローマ帝国が支配しました。

カステルグランデ

11世紀になり北イタリアの中心的な都市共和国(コムーネ)として栄えたミラノは、ベリンツォーナの領有を巡り神聖ローマ帝国と争うようになりました。1002年に神聖ローマ帝国がベリンツォーナからミラノを追い出すと、ベリンツォーナは神聖ローマ帝国を支援したコモ司教に与えられ、コモ司教はカステルグランデを宮殿として使用しました。

スイス・ベリンツォーナのカステルグランデ

カステルグランデ

古代ローマ時代から交通の要衝を守る要塞として利用されました。ベリンツォーナで最も古く最も大きな城で、高さ40メートルほどの丘に建造されています。

スイス・ベリンツォーナのカステルグランデ

カステルグランデ

城壁を巡らせたベリンツォーナで最も巨大な城塞です。ベリンツォーナ旧市街の3つの城と防壁・城壁群として世界遺産に登録されました。

ミラノ公国との争奪戦

ベリンツォーナを支配したコモ司教は、神聖ローマ皇帝を支持する皇帝派に転向したことでミラノから攻撃を受けるようになりました。1395年に神聖ローマ帝国から公爵位を得てミラノ公国を成立させたヴィスコンティ家が支配しますが、15世紀初頭に3つの邦で結成したスイス盟約者同盟が取り返して保護下としました。1422年のアルベドの戦いでミラノ公国が再占領して、1478年のジョルニコの戦いでスイス盟約者同盟軍の侵攻を退けました。

スイス・ベリンツォーナのモンテベッロ城

モンテベッロ城

13世紀後半にコモ司教のルスカ家がミラノ公国からの侵攻を防ぐため、カステルグランデの南東の山麓に建造して防御を高めました。

スイス・ベリンツォーナのサッソ・コルバロ城

サッソ・コルバロ城

1400年前後にミラノ公国が防衛を強化するために建造した城で、刑務所としても使用されました。延長した城壁(ムラータ)が現在も残されています。

フランスの介入

ヴィスコンティ家が断絶したミラノ公国は、1447年にミラノの傭兵隊長の一族スフォルツァ家に支配権が移りました。1499年にミラノ公国の継承権を主張したフランス王ルイ12世がイタリアに侵攻し、ベリンツォーナからスフォルツァ家を追放しました。ルイ12世はスイス盟約者同盟軍の攻撃を恐れてカステルグランデを強化しますが、1500年に反乱によりフランス軍は追放されてスイス盟約者団の支配下になりました。

永世中立国スイスの都市

1798年にナポレオンがスイスに侵攻してヘルヴェティア共和国が設立し、1803年にベリンツォーナはティチーノ州に編入されて州都となりました。1815年にナポレオンが失脚してウィーン会議が開かれると、スイスは永世中立国として認められ、ベリンツォーナは侵略されることなく町並みが残されました。

スイス・ベリンツォーナ市街

ベリンツォーナ市街

1503年にフランス王国とミラノ公国は、ベリンツォーナのスイス盟約者同盟による統治を承認しました。これにより城や城壁は重要性を失い次第に放棄されました。

スイス・ベリンツォーナ市街

ベリンツォーナ市街

1815年にナポレオンが失脚して開催されたウィーン会議では、スイスは国家として永世中立が認められ、それからは侵略されることなく現在に至ります。