古代メキシコの文明
メキシコにはマヤ、アステカ、テオティワカンなどの古代文明が生まれました。16世紀のスペイン侵攻までの3000年に渡り多様な環境に適応しながら独自の文化を開花させました。首都メキシコシティにある国立人類学博物館では、メソアメリカ文明の世界観の解説とともに美術品が展示されています。
国立人類学博物館
国立人類学博物館は、メキシコが誇る世界的な博物館です。メキシコ人建築家ペドロ・ラミレス・バスケスの設計により1964年にオープンしました。外観はメキシコ古代文化の建築様式を近代建築に応用しており、古代メソアメリカ文明の特徴が現れています。
国立人類学博物館
メキシコ古代建築様式を取り入れた博物館で、古代メソアメリカ文明の世界観が展示されています。
国立人類学博物館
国立人類学博物館のエントランスは、世界樹から雨が降り注いでいる様子を表現しています。
マヤ、オアハカ、テオティワカンなどの文明ごとのブースに分かれており、たくさんの遺物が展示されています。メキシコで数多く生まれた古代文明はそれぞれ特徴が異なり、それらの文明で生まれた遺物は見応えがあるため、よく見て回るには半日必要です。
文明が生まれる前
アフリカ大陸で誕生したと言われる人類は、ユーラシア大陸北部のベーリング海峡からアメリカ大陸へと渡り、カナダ、アメリカと通りメキシコに移住して来たと考えられています。当時の人たちはマンモスなどの動物を沼地に引き込み狩りを行いました。
太古の生活
太古の時代は狩猟を行い各地を渡り歩いて生活していました。
岩絵
バハカリフォルニア半島には色鮮やかな壁画が残されています。
メキシコの太平洋側にある長大なバハカリフォルニア半島にあるサンフランシスコ山地には岩絵が残されています。人間や当時の動物が描かれている岩絵は、古いものは紀元前5000年頃に描かれたと考えられています。メキシコ国内にある世界遺産の一つでもあります。
オルメカ文明
メキシコ古代文明の母と言われるオルメカ文明は、メキシコ湾沿岸の湿地帯に紀元前1800年頃に誕生したと考えられています。オルメカ文明は大きく前期はサン・ロレンソ、中期はラベンタ、後期はトレスサポテスを中心とした3つの時代に分けられます。オルメカ文明の最盛期は紀元前1200年から紀元前400年頃と言われています。
サン・ロレンソの巨石人頭
高さ4メートル、重さ10トンほどある巨石に顔が彫られています。
微笑む人の土偶
作物の豊穣を願うために製作されたとも言われています。
オルメカ文明は石を掘る技術があり、巨石人頭やオルメカヘッドと言われる巨大な玄武岩の彫像が特徴的です。この巨石人頭は紀元前1800年から紀元前1100年にかけて存在したサン・ロレンソ時代のものです。また、豊穣を祈願するために製作されたと言われる微笑む人の土偶も製作されていました。
緑色石の装飾品
交易により緑色石を得て装飾品として加工していました。
トラロック
マヤの神もオルメカ文明にもたらされていることを裏付けます。
沿岸部に発達したオルメカ文明は交易も盛んに行われました。交易により遠い地域からもたらされた緑色石は宗教儀式などで使われる装飾品として加工されています。また、マヤの雨の神トラロックもメキシコ湾岸地域にもたらされています。
マヤ文明
主にユカタン半島に広がる文明で、熱帯雨林気候に属するため高温多湿で雨季と乾季に分かれる気候。ユカタン半島は石灰岩台地でできているため雨が地下に染み込みます。このため主食のトウモロコシの栽培では雨に頼る必要があり、神に供物や生贄を捧げていました。
赤の女王
赤色で塗られていたため赤の女王と名付けられました。
チャックモール像
腹部の皿に供物や生贄の心臓が捧げられていました。
都市国家パレンケから発掘された赤の女王は、辰砂(水銀朱)で覆われて緑色石のマスクや装飾品を身にまといます。パカル王妃の可能性が指摘されることから赤の女王と呼ばれています。マヤ文明では王族と共に埋葬されるほか、神への生贄として多くの人が命を捧げられました。生贄はゴムボールを石のリングに通す球技により選ばれたと言われます。
ゴムボール
球技に使用されたゴム製ボールです。
球技のゴール
ゴムボールを石のリングに通す競技でした。
マヤ文明は紀元前1200年頃からスペイン人が侵攻してきた16世紀半ばまで続きました。ユカタン半島各地に都市国家を築いて、それぞれの都市国家が交易や戦争を繰り返しながら文明を開化させ、やがて後期にチチェン・イッツァに集約していきました。
テオティワカン文明
テオティワカン文明は、メキシコシティがあるメキシコ中央高原で紀元前2世紀頃に興り、4~5世紀に最盛期を迎えました。標高2500~2800メートルあるメキシコ中央高原で興り、その3方を標高5000メートルを超える山が聳えるため雨があまり降らず、主食のトウモロコシの栽培のため雨は貴重なものでした。
死のティスク石彫
太陽が沈んでから再生することを示します。
ウエウエテオトル
儀式用の香炉で火の神の老人と呼ばれています。
テオティワカン文明では太陽は沈んで(死んで)から夜明けとともに再生すると考えられていました。テオティワカンでは宗教儀式が行われ豊穣を祈願していたと考えられます。月のピラミッドの前で発見されたチャリチゥトゥクリエは、大地と水を司る農耕の女神と考えられており、生誕の守護神と言われています。
チャリチゥトゥクリエ
大地と水を司る農耕の女神と考えられています。
ケツァルコアトル神殿
ケツァルコアトルとトラロックの像が並びます。
テオティワカン文明は、マヤの都市国家が成立した紀元前100年ころから成立して、6世紀中ごろに突然終焉を迎えました。現在のところテオティワカン文明はテオティワカン遺跡でしか発見されておらず、住んだ民族も話された言葉も分からない謎の文明です。
トルテカ文明
トルテカ文明はテオティワカン文明に続く10世紀から12世紀にかけて繁栄した文明です。神聖な都市トルテカンを築きますが謎が多い文明です。トルテカの人たちは羽毛のある蛇神ケツァルコアトルを最も重要な太陽の神として崇めました。
トゥーラの戦士像
神殿の柱として利用されていました。
カカシュトラの壁画
戦争が盛んに行われた時代の文明です。
トゥーラの戦士像やカカシュトラの壁画にあるジャガーの戦士など戦闘をモチーフにしたものが多いことが特徴的です。これは社会が不安定な状況であり、戦争や軍事が重要と見なされていたことが分かります。
アステカ文明
アステカ文明は、テオティワカン文明が滅亡した700年後にメキシコ中央高原の同じ地域に興りました。アステカ帝国は、テノチティトラン、テツココ、トラコバンの3つの都市国家による三都市同盟であり、スペイン人はアステカ帝国を率いていた人をアステカ人と呼んでいたことから名付けられました。アステカの人々は自分たちをメシカ人と呼んでいたため、これが現在のメキシコの名前の由来となります。
太陽の石
アステカカレンダーとも呼ばれています。
エエカトル神像
風を意味し生と豊穣を司る神とされます。
南下してきたメシカ人は現在のメキシコシティに大神殿テンプロ・マヨールを築きました。湖を埋め立てて首都テノチティトランを建設して1325年にアステカ帝国が成立しました。高度な数学や天文学がありましたが、16世紀半ばにスペイン人が侵攻して滅亡しました。