ブルージュ

ブルージュはベルギーの北西に位置する西フランドル州の州都です。運河が巡る中世の町並みは、天井のない美術館や北のヴェネツィアと呼ばれています。古くから港湾都市として栄え、ゼーブルージュ港はアントウェルペンに次いでベルギー2番目の規模を誇ります。水の都ブルージュの中世の町並みは、2000年にブルージュ歴史地区として世界遺産に登録されました。
概要
- 面積
- 138.4km2
- 標高
- 120 - 169 m
- 人口
- 11.73万 (2011年)
- 地図
歴史
ブルージュは古くから交通の要衝で、多民族が入り混じる地域でした。津波の痕跡を利用して運河が開削されると、毛織物の交易で繁栄しました。15世紀後半から土砂で運河が埋まると、アントウェルペンに貿易の中心が移り中世の町並みを残して時間を止めました。
ブルージュの誕生
古くから多民族が行き交うヨーロッパの交通の要衝でした。紀元前1世紀にローマ帝国ユリウス・カエサルは、この地に住む勇敢な民族をベルガエ人と呼んだことでベルギーの語源となりました。やがてケルト人が住んでいたところにゲルマン人が混じり多民族国家の初期の姿を形成します。5世紀にフランク王国が建国して9世紀に分裂すると、初代フランドル伯ボードゥアン1世がノルマン人の侵攻に備えて城塞を建てたことで都市が形成していきました。
ブルージュの発展
ブルージュは北海から24キロほど内陸にありますが、12世紀の津波による爪痕を利用して運河が開削され、北海やバルト海を利用した海上交易で急速に発展しました。1252年に北海やバルト海の商業都市がハンザ同盟を結成すると、その中核都市としてヨーロッパ初の証券取引所が設立されるなど繁栄しました。

ブルージュ市街
中世の面影を色濃く残す美しい都市で、美しい石造りの橋や歴史的な建物が並びます。2000年にブルージュ歴史地区として世界遺産に登録されました。
ブルゴーニュ公国時代
14世紀にイギリスから輸入した羊毛を毛織物に加工して交易することで莫大な利益を得ますが、裕福であるがゆえに大国から狙われるようになりました。フランス王フィリップ4世はフランドル伯領を制圧してフランドル総督に政治を任せますが、1302年にブルージュ民衆がフランドル総督の圧政に反発して金拍車の戦いとなりました。
金拍車の戦い
アルトワ伯ロベール2世はブルージュ民衆の反乱を鎮圧しようとしますが、ブルージュ民衆はフランス騎士団を撃退して勝利します。フランスは再びフランドル伯領に攻め込み、アティス・シュル・オルジュ条約を結んで支配を継続しました。

マルクト広場
ヨーロッパの主要な貿易都市時代において商業と社会活動の中心でした。広場にはベルギーで最も古いネオ・ゴシック様式の州庁舎があります。

マルクト広場
ブルージュのマルクト広場には、反乱を指導した英雄として肉屋のヤン・ブレイデルと織布工ピーター・ド・コニングの像が建ちます。

ブルージュの鐘楼
毛織物業の同業組合(ギルド)として建築された建物には、1220年に自由と権力のシンボルとして高さ83メートルの鐘楼が建てられました。

ブルージュ聖母教会
13~15世紀に建造された高さ122メートルのレンガの塔が特徴的な教会です。ブルゴーニュ公爵の娘マリーとハプスブルク家マクシミリアン1世の結婚式も行われました。
ブルージュの衰退と復活
15世紀後半に北海から流入する土砂で運河が埋まり、貿易の中心がアントウェルペンに移されたことで15世紀の町並みを残した死の町と呼ばれました。1892年にベルギーの作家ジョルジュ・ローデンバックの「死都ブルージュ」がフランスのフィガロ紙に掲載され、ブルージュはベルギー有数の観光地として蘇りました。堆積した土砂は取り除かれ、ゼーブルージュ港はアントウェルペンに次いでベルギー第二の港湾となりました。

ブルージュ市街
15世紀に運河に土砂が流入してゴーストタウン化しました。15世紀の町並みがそのまま残され、死の町と呼ばれました。

ブルージュ市街
15世紀の古い町並みが取り残されたブルージュは、19世紀にフランスのフィガロ紙に紹介されたことで、ベルギー有数の観光地として蘇りました。