ブリュッセル
ブリュッセルはブリュッセル首都圏地域を構成する最大の基礎自治体でベルギー王国の首都です。中世から交通の要衝として繁栄して、美しい街はプチパリと呼ばれます。欧州連合(EU)や北大西洋条約機構(NATO)の本部などが置かれ、ヨーロッパの中心的役割も果たします。
概要
- 面積
- 32.61km2
- 標高
- 13m
- 人口
- 17.44万 (2011年)
- 地図
歴史
ブリュッセルは10世紀に下ロタリンギア公シャルルが小さな砦を建てたことに始まります。毛織物産業が非常に発展し北ヨーロッパ商業圏と地中海商業圏と交易を行うことで発展しました。現在は欧州連合(EU)や北大西洋条約機構(NATO)の本部が置かれヨーロッパの中心的な役割を果たします。
ブリュッセルの誕生
ブリュッセルは古くから多民族が行き交うヨーロッパの交通の要衝で、紀元前6世紀にケルト人が東から移住しました。紀元前1世紀にはローマ帝国のユリウス・カエサルがガリア遠征を行いローマ帝国の支配下に置かれ、ゲルマン民族の移動により西ローマ帝国が滅亡すると、5世紀にフランク人がフランク王国を建国して支配します。
フランク王国カール大帝の子孫である下ロタリンギア公シャルルは、聖ギュデュルの聖遺物を聖ガウゲリクス教会に移して、979年に小さな砦を築いたことでブリュッセルが都市として始まりました。ブリュッセルの名はこの砦を指す沼の中の居住地が由来と言われます。
ブリュッセル市街
交通の要衝にある交易都市です。
カール大帝
異民族の侵攻を退けたフランク国王です。
フランドル地方の発達とギルドの形成
ブリュッセルがあるフランドル地方は古くから羊毛の産地でした。イングランドからも大量に羊毛が輸入されたため毛織物産業が非常に発展し、北ヨーロッパ商業圏と地中海商業圏と交易を行うことで経済が発達します。11世紀から固有の権利を確保する同業者組合(ギルド)が出現し、商人ギルドは都市の経済を統制し、職人ギルドは生産活動の統制や品質管理を行いました。
ブリュッセルは商業の町として栄え、下ロタリンギア公国に含まれるブラバント伯領は、1383年に宮廷をルーヴェンからブリュッセルに移しました。1430年にはブラバント伯領のほかロタリンギア、リンブルク伯領を継承したブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)が、ブルゴーニュ公国の宮廷をフランス・ディジョンからブリュッセルに移しています。
ギルドハウス
同業者組合を結成して権利を独占しました。
セルクラース像
フランドル伯からブラバント伯領を守った人物です。
ブリュッセル繁栄の象徴ーグラン・プラスー
世界遺産に認定されているグラン・プラスは、12世紀からブリュッセルの政治・経済の中心として栄えました。市庁舎や王の家、ギルドハウスに囲まれた広場で、ユゴーは世界で最も美しい広場と称賛し、ジャン・コクトーが絢爛たる劇場と讃えました。
グラン・プラスにある市庁舎の向かいにある王の家は、16世紀に神聖ローマ皇帝カール5世の命により建てられスペイン政庁としても使用されました。ギルドハウスと王の家は17世紀の大同盟戦争でフランスからの砲撃により破壊されましたが、現在の姿に再建されています。
市庁舎
15世紀に建てられたゴシック様式の建物です。
王の家
16世紀にカール5世の命で建てられスペイン政庁として使われました。
ハプスブルク家の統治
フランス・カペー朝が断絶しすると、イギリス・エドワード3世が王位継承権を主張したことでフランスとイギリスで百年戦争が起こりました。フランス王シャルル5世は、断絶したブルゴーニュ公に弟フィリップ2世を継がせることでイギリスを牽制します。さらにフィリップ2世はフランドル伯ルイ2世の娘マグリットと婚姻したことで、ブルゴーニュ公国がフランドル伯領も支配下としました。
ブルゴーニュ公国はフランス王家の血筋ではありますが、毛織物産業でイギリスに近いことから徐々にフランスと対峙するようになりました。1476年にブルゴーニュ公国シャルル(豪胆王)がナンシーの戦いで戦死すると、娘マリーはハプスブルク家マクシミリアン1世と婚姻して1447年にブルゴーニュ公国はハプスブルク家の統治下となりました。マクシミリアン1世の子フィリップは、カスティーリャ王女フアナと結婚してカスティーリャ継承権を得ると、フィリップはスペイン王となりブルゴーニュ公国はスペインの統治下になりました。
マクシミリアン1世とマリー
マリーの要請に応じて駆けつけました。
サン・ミッシェル大聖堂
15世紀の大聖堂でマクシミリアンの結婚式が行われました。
宗教革命による影響
1517年にマルティン・ルターが九十五ヶ条の論題を発表して宗教改革を起こすとネーデルラントでプロテスタントが急速に勢力を広げました。神聖ローマ皇帝カール5世は、1520年にプロテスタントの弾圧を決め、1523年にはアントウェルペンの修道士ヘンドリク・フォエスとヤン・ファン・エッセンがグラン・プラスで火刑に処されプロテスタント最初の殉教者が出ました。
1555年にスペイン国王に即位したカトリック信者フィリペ2世は、プロテスタント派を敵視し、徹底的に弾圧を始めました。プロテスタントを擁護するフランダース地方長官エグモント伯は弾圧をやめるよう訴えますが、国王は聞く耳を持たず1568年にエグモント伯ラモラールやホールネなどはグラン・プラスで斬首の刑になりました。
グラン・プラス
プロテスタントの修道士が火刑に処されました。
グラン・プラス
世界で最も美しい広場と称賛され世界遺産に登録されます。
80年戦争とオランダの独立
プロテスタントの弾圧のためスペインはブリュッセルに軍を派遣します。派遣されたアルバ公は血の評議会と呼ばれる騒乱裁判評議会を設置して多くのプロテスタントを処刑しました。こうした事態に対して、ドイツに亡命していたオラニエ公ウィレム1世は、1568年に挙兵して80年戦争(オランダ独立戦争)が起こります。1648年にウェストファリア条約が締結され、ネーデルラント連邦共和国が独立しますが、ブリュッセルを含むネーデルラント南部はスペイン領として残されました。
スペイン領ネーデルランドに狙いを定めたフランス・ルイ14世は、度々ネーデルラントに侵攻するようになります。1695年にヴィルロワ元師の指揮によりグラン・プラスは激しい砲撃戦で甚大な被害を受けます。1700年にスペイン=ハプスブルク家が断絶してスペイン継承戦争に突入すると、1714年のラシュタット条約によりブリュッセルはオーストリア・ハプスブルク家の支配下となり、18世紀末から19世紀にかけてフランス革命戦争の影響によりフランス領に編入されました。
ウィレム1世
スペイン=ハプスブルク家に反旗を翻しました。
小便小僧
1619年のジュリアンの愛称で親しまれます。
ベルギーの独立と現在
1814年のウィーン会議でオランダ領になりますが、宗教や言語で異なためオランダから不遇を受けました。その不満が爆発して1830年ベルギー独立革命が起こり、イギリスの支援を受けてベルギーは独立を果たします。ベルギーは首都をブリュッセルとしてイギリス王室と縁があるレオポルド1世を初代国王として迎え入れました。
第一次世界大戦と第二次世界大戦でドイツに占領されて荒廃しましたが、首都ブリュッセルはヨーロッパの統合の中心地となり、1993年発足のヨーロッパ連合(EU)の行政機構である欧州委員会が置かれています。また北大西洋条約機構(NATO)の本部もあり国際都市としての役割を果たしています。
サンカントネール凱旋門
レオポルド2世の命により建てられました。
ブリュッセル王宮
1829年にブラバン公爵邸跡に建設された宮殿です。