歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

アントウェルペン

ベルギー・アントウェルペンのグロート・マルクト

アントウェルペンはベルギーのスヘルデ川沿いにあるベルギー第二の都市です。中心部には何世紀もの歴史を持つダイヤモンド地区があり、たくさんのダイヤモンド業者、カット職人、研磨職人が居住しています。アントウェルペンにはフランドル・ルネサンス様式の建築が残り、中でも旧市街の中央広場グロート・マルクトはその代表格です。

概要

面積
204.5km2
標高
不明
人口
49.85万 (2011年)
地図

歴史

アントウェルペンはスヘルデ川沿いにある港湾都市です。フランドル地方やイギリスから仕入れた羊毛を加工した毛織物産業により栄えました。フランスやドイツなどの大国に囲まれるため、ハプスブルク家など時の権力者に支配されました。名作フランダースの犬の舞台でもあり、ネロとパトラッシュが最後を迎えた聖母教会はベルギーで最も大きなゴシック教会です。

名前の由来「ブラボーの物語」

アントウェルペンがあるフランドル地方には紀元前6世紀頃からケルト族が定住していました。紀元前1世紀になると、ローマ帝国ユリウス・カエサルがガリア遠征を行いローマ帝国の支配下に入ると、ガロ・ローマ文化期のラテン語でスヘルデ川の土砂体積による土地という意味のアントウェルペンと名付けられたと言われます。

アントウェルペンにはブラボーの物語が残されており、これが町の名前の由来とも言われます。スヘルデ川に住み着いていた巨人ドルオン・アンディゴーンは、航行する船舶から通行料を取り立てて、従わない場合は船長の手首を切り落としていました。この話を聞いたローマ戦士シルヴィウス・ブラボーは、この巨人を退治すると手首を切断して川に投げ捨てました。これにより町は自由に開放され、町の名前はハント(手)+ウェルペン(投げ捨てる)と呼ばれたと言うものです。

ベルギー・アントウェルペン市街

アントウェルペン

湾曲したスヘルデ川沿いに作られた町です。

ベルギー・アントウェルペンのグロート・マルクト_ブラボーの噴水

ブラボーの噴水

グロート・マルクトにあるブラボー物語の噴水です。

アントウェルペンの繁栄

アントウェルペンは、羊毛の産地フランドル地方の北端にあり、北ヨーロッパ商業圏と地中海商業圏と交易を行うことで繁栄しました。交易により栄えた北ヨーロッパの商業都市は、領主から利権を守るために都市同士でハンザ同盟を結成して団結し、アントウェルペンには在外商館が置かれました。

アントウェルペンはフランドル地方の毛織物を輸出する港として栄えました。16世紀にはイギリスからの羊毛の輸入量が急増して取引量が増えると、ポルトガルからインドまでの航路が開拓されて香辛料貿易が開始されると、リスボン経由でアジアの香辛料や新大陸の銀などが集積されるようになり、アントウェルペンはリスボンとともに最大の貿易港として繁栄しました。

ベルギー・アントウェルペンのグロート・マルクト_ギルドハウス

ギルドハウス

グロート・マルクト(マルクト広場)にあります。

ベルギー・アントウェルペンのステーン城

ステーン城

9世紀の砦を15世紀にカール5世が城塞に改築しました。

80年戦争と衰退

アントウェルペンを含むフランドル地方は、1506年からブルゴーニュ公から相続したハプスブルク家カール5世の領地となりました。1517年にマルティン・ルターが九十五ヶ条の論題を発表して宗教改革を起こすと、プロテスタントはネーデルラントで急速に力を広げて、1566年にネーデルラント最大の都市アントウェルペンを陥落しました。この反乱は圧倒的な力を持つスペイン=ハプスブルク家により鎮圧されますが、プロテスタントを容認しているオラニエ公ウィレムはスペインと対立して、1568年に亡命先のドイツからネーデルラントに侵攻して80年戦争(オランダ独立戦争)が幕を開けました。

プロテスタントは偶像崇拝を禁止するため、フランダースの犬の舞台となる聖母大聖堂から聖像が破壊されるなどの被害を受けました。こうした混乱の中、派遣されたスペイン軍は、1576年にアントウェルペンでスペイン人の逆上と呼ばれる大虐殺や大略奪を行いました。1585年にはアントウェルペン包囲戦で戦火に見舞われて町は荒廃してプロテスタントの商人はアムステルダムに逃れて世界経済の中心地はアムステルダムに移りました。

ウィレム1世

ウィレム1世

スペイン=ハプスブルク家に反旗を翻しました。

ベルギー・アントウェルペンの聖母大聖堂

聖母大聖堂

1521年に完成したベルギー最大のゴシック教会です。

ベルギー独立と現在のアントウェルペン

1648年にウェストファリア条約によりネーデルラントは分裂してオランダは独立を果たしますが、ベルギーはスペイン領として残りました。こうしてアントウェルペンは19世紀のフランス革命戦争でフランスの統治下に置かれるまでハプスブルク家の支配を受けました。

1814年のウィーン会議でベルギーはオランダ領になりますが、宗教や言語の違いにより1830年にベルギー独立革命が起こります。ベルギーはイギリスの支援を受けて独立を果たしました。第一次世界大戦や第二次世界大戦でドイツに占領されましたが、アントウェルペンは高い工業力でベルギー最大人口の都市に発展し、アントウェルペン港はオランダ・ロッテルダム港に次いでヨーロッパ第2位の取り扱いトン数の港湾になりました。

ベルギー・アントウェルペンのアントウェルペン中央駅

アントウェルペン中央駅

1905年に完成した世界一美しい駅です。

ベルギー・アントウェルペンのアントウェルペン港

アントウェルペン港

ヨーロッパ第2位の取り扱いトン数の港湾です。