歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

南ホラント州

オランダ・南ホラント州のキンデルダイク

南ホラント州(ゾイトホラント)は、オランダ南西部の州で州都はハーグです。平坦な地形でライン川支流が北海に流れ込みます。オランダ第二の都市ロッテルダムやデルフトなどの都市があり、世界遺産キンデルダイクなど観光・体験スポットも充実しています。

概要

面積
3,403km2
標高
5m
人口
372万6,000人 (2021年)
地図

歴史

南ホラント州と北ホラント州は、1つのホラント州としてオランダの中心的な役割を担いました。干拓で生まれた土地にアムステルダムやロッテルダムなどの町ができ、1581年にネーデルラント連邦共和国として独立を宣言した中心地がホラント州です。海洋進出を積極的に進めてオランダ海上帝国と呼ばれるようになると、ホラント州は世界経済の経済の中心的な存在となりました。

ホラント伯領ネーデルラント

ベルギー、オランダ、ルクセンブルクのベネルクス三国に北フランスを加えた地方は、氷河や川により運ばれた土砂が堆積して軟弱な泥炭層に覆われる湿地帯で、古くから低地を意味するネーデルラントと呼ばれました。紀元前にはゲルマン系バタヴィア人が住んでいましたが、3世紀末にフランク人がライン東岸からネーデルラント南部に移り住みフランク王国を建国すると、ネーデルラントは全域がフランク王国に含まれました。

ハプスブルク家の所領

ネーデルラントは9世紀後半にホラント伯領となりますが、1299年にホラント伯が断絶するとエノー伯がホラント伯を兼ねました。1432年にブルゴーニュ領ネーデルラントの一部となりますが、1477年にブルゴーニュ公女マリーがハプスブルグ家マクシミリアンと結婚したため1482年にネーデルラント全域がハプスブルク家の所領となり、ホラント伯領はネーデルラント17州の1つとなりました。

オランダ・南ホラント州のハーグ市街

ハーグ市街

南ホラント州の州都ハーグは平地にあります。

マクシミリアン1世とマリー

マクシミリアン1世とマリー

ハプスブルク家がネーデルラントを領有しました。

ネーデルラントと干拓事業

ネーデルラント南部のフランドル地方は毛織物の産地として知られており、11世紀にイギリスから原料となる羊毛を輸入するようになると、さらに繁栄するようになりました。産業の発達に伴い人口が増加して土地が不足するようになると、泥炭層に覆われた湿原の周囲に防波堤を建てて排水しましたが、やがて地盤沈下を起こして海水面よりも低い土地となり自然排水が困難になりました。

風車による干拓事業

13世紀から排水の動力として風車を利用し、北海に面した低地を干拓する事業が始まりました。干拓地はポルダーと呼ばれ、北海に注ぐアムステル川に建造された堤防(ダム)からアムステルダムの町ができ、ロッテ川にもダムが造られてロッテルダムの町ができました。こうした町は大洪水やノルマン人の襲撃による被害を受けることが多いため、領主の支配が弱く民主的な小集団が社会を構成していました。

キンデルダイク=エルスハウトの風車群

キンデルダイクは子供の堤防という意味があります。1421年のエリザベス大洪水で小さなゆりかごが流れ着いたことから名付けられました。キンデルダイクの風車群は最盛期には1000基の風車が建てられていましたが、現在は観光用として18世紀に建造された19基の風車が残り、そのうち2基の風車が一般公開されています。

オランダ・南ホラント州のキンデルダイク

キンデルダイク

12世紀の十字軍の遠征を契機に製粉の動力としてオランダに風車が伝わりました。オランダは風車の動力を活用して排水するようになります。

オランダ・南ホラント州のキンデルダイク

キンデルダイク

風車を排水用に改良すると、風車により低地の水を段階的に高い堤防に掻き揚げることで浅瀬を土地に変えることにしました。

オランダ・南ホラント州のキンデルダイク

キンデルダイク

風を受けた14メートルの羽根の回転を動力として、低い干拓地側の水路から1メートル以上高いところにある運河に水を掻き揚げています。

オランダ・南ホラント州のキンデルダイク

キンデルダイク

産業革命の到来により蒸気機関を利用した干拓へと移り変わり風車は役目を終えましたが、オランダ国土は15世紀に比べて20%以上も拡大しました。

宗教改革とスペインからの独立

1556年にハプスブルク家がスペインとオーストリアに分割されると、ネーデルラントはスペイン=ハプスブル家の領土となりました。ネーデルラントは商業都市が多いため、財を成すことに肯定的なプロテスタントの信奉者が多くいました。しかしスペイン=ハプスブルク家フェリペ2世は熱狂的なカトリック信者でありプロテスタントに対して弾圧を強め、ネーデルラントにアルバ公を派遣して血の評議会と呼ばれる騒乱裁判評議会で多くのプロテスタント信者を処刑しました。

オラニエ公ウィレム1世

血の評議会で全財産を没収されたオラニエ公ウィレム1世は、1568年にホランド州を中心としてスペインに対して独立戦争を起こしました。1581年にネーデルラント北部7州はユトレヒト同盟を結成し、ウィレム1世を総督としてネーデルラント連邦共和国として独立を宣言しました。のちにカトリックとプロテスタントの宗教戦争である三十年戦争が終結して1648年にウェストファリア条約が締結されると国際的に独立が承認されました。

ウィレム1世

ウィレム1世

スペインからオランダを独立に導きました。

フェリペ2世

フェリペ2世

各地に植民地を作りスペインを繁栄に導きました。

海洋進出とオランダ黄金時代

16世紀からアムステルダムやロッテルダムの商人はポルトガルのリスボンを経由してアジアなどと中継貿易を行い繁栄しましたが、1580年にスペインがポルトガルを併合すると1595年にはオランダ船はリスボン港から排除されました。独立戦争でイギリスの支援を受けていたオランダは、ニシンの塩漬けマーチェスを考案してイギリスとの交易で財を成しおり、その航海技術で海洋進出を図りスペイン・ポルトガルに代わり海洋交易で主導権を握るようになりました。

オランダ東インド会社の設立

オランダは1600年にモルッカ諸島をポルトガルから奪いアジア進出の足掛かりとすると、1602年にはアムステルダムやロッテルダムなど6つの都市を拠点とするオランダ東インド会社を設立してアジア交易に乗り出しました。南米では西インド会社を設立して黒人奴隷貿易を行い、これにより得られた莫大な富はスペインからの独立戦争の財源となりました。

アンボイナ事件

1609年にポルトガルからスリランカを奪取してオランダ海上帝国と呼ばれるほど繁栄しますが、スペイン無敵艦隊を破り海洋国家として台頭してきたイギリスと覇権を争うことになります。1623年にはインドネシア・モルッカ諸島でイギリス商館がオランダ東インド会社に襲われるアンボイナ事件が発生してイギリスを排除しましたが、この事件は反オランダ感情を高めて英蘭戦争へと繋がることになります。

オランダ・アムステルダム

アムステルダム

世界経済の中心的な存在でした。

オランダ・ロッテルダム

ロッテルダム

干拓地ポルダーに造られた町です。

日本との貿易

オランダとの関係は1600年にオランダのロッテルダムの商人が派遣したリーフデ号が豊後に漂着したことに始まります。乗員のヤン・ヨーステン(耶揚子)やイギリス人ウィリアム・アダムズ(三浦按針)は徳川家康に登用されて外交官となり両国との関係を取り持ち、1609年にオランダは平戸に商館を設けて日本茶や銀などを取引しました。1613年にイギリスも平戸に商館を設けますが、1623年のアンボイナ事件でイギリスの影響力が弱まるとイギリスは商館を閉鎖して撤退し、日本との貿易はオランダが独占することになります。

1639年に江戸幕府が鎖国政策を始めると1641年にオランダ商館が長崎出島に移され、オランダは幕末までヨーロッパの唯一の窓口となりました。オランダ東インド会社は日本で需要の大きい中国産の生糸を持ち込み、その対価である大量の銀や銅を東南アジアやインドで香辛料や綿布、硝石などに変えて本国に持ち帰りました。オランダは日本との貿易を独占することで利益を得て、鎖国下の日本はオランダから世界情勢や西洋の学問を得ました。オランダから得た学問などは幕末から明治期の西洋化を進める原動力となりました。

ヤン・ヨーステン

ヤン・ヨーステン

オランダ船リーフデ号で漂着しました。

平戸

平戸

オランダやイギリスが商館を建てました。

度重なる英仏との戦争と現在

オランダは海洋交易で財を成してオランダ海上帝国と呼ばれるほど繁栄しましたが、同じく海洋国家のイギリスとの関係が悪化して1652年から英蘭戦争が起こりました。さらにフランスからの侵攻を度々受け、オランダは疲弊していくことになります。1789年にフランス革命が起こるとフランス革命軍に侵略されて1795年にネーデルラント連邦共和国は崩壊しました。フランスの衛星国バタヴィア共和国が成立して1806年にナポレオンの弟ルイを王とするホラント王国となり1810年にフランス帝国に併合されました。

1815年にフランス帝国が崩壊すると、パリ講和条約でベルギーやルクセンブルクを含むネーデルラント連合王国として独立しました。しかし宗教や言語の問題がありベルギーが1839年に独立すると、1840年にホラント州は州制度の改革により南北2つの州に分割されました。1940年の第二次世界大戦ではドイツ軍に占領されましたが1945年にドイツが降伏して解放され現在に至ります。

オランダ・南ホラント州

南ホラント州

第二次世界大戦のオランダ国内のレジスタンスたちは風車守たちの協力により風車の羽根で密かにメッセージを送りました。

オランダ・南ホラント州

南ホラント州

低地が広がり運河が張り巡らされています。