パロ
パロはパロ県の都市でブータン唯一の国際空港(パロ国際空港)があり地方都市への空路も整備されています。パロの真ん中にはパロ川が流れ、パロ川が浸食したパロ谷に町ができています。そのおかげで山がちなブータンの中では珍しく平地が多い場所です。
概要
- 面積
- 不明
- 標高
- 2,200m
- 人口
- 1.145万 (2017年)
- 地図
歴史
チベットの一部であるブータンは、ソンツェン・ガンポによりキチュ・ラカンが建造されてブータン仏教が始まりました。チベットが仏教を国教として、ドゥク派が分裂して独自の政権を確立したことがブータンの始まりと言われます。現在のパロは、ブータンの空の玄関口として唯一の国際空港があります。
チベット仏教の伝来
かつてブータンはチベット(吐蕃)の一部でした。7世紀初めにチベットを統一したソンツェン=ガンポは、布教活動の一環として659年にキチュ・ラカンを建造しました。ソンツェン・ガンポは108の寺院を建立してブータン仏教が始まりますが、現存するのはキチュ・ラカンのほかブムタン地方のジャンパ・ラカンのみとなりました。8世紀にチベットで仏教が国教と定められ、その始祖と言われるパドマサンバヴァが現在のブータンにあたる南チベットでの布教を行ないました。その過程でタクツァン僧院などが建立され、この地域一帯にチベット仏教が浸透していきました。
キチュ・ラカン
7世紀初めにチベットを統一したソンツェン=ガンポは、布教活動の一環として659年にキチュ・ラカンを建造しました。
タクツァン僧院
パドマサンバヴァが現在のブータンで布教を行う過程で建造され、ブータンの地にチベット仏教が浸透していきました。
タクツァン僧院
タクツァン僧院は、ブータンに仏教を広めたパドマサンバヴァの伝説が残されます。虎の背中に乗るパドマサンバヴァが崖の上まで飛んで行き、瞑想により地元の悪霊を鎮めて仏教の守護者に転生させました。ここから虎のねぐらを意味するタクツァンと名付けられました。タクツァン僧院は山の中腹にある断崖絶壁に建設されました。17世紀に関連施設が建てられて現在の姿となりますが、1998年の火災で焼けて5年ほどかけて元通りに修復されました。内部には火災による焼けた痕跡が黒いシミとして残されています。
タクツァン僧院
虎の背中に乗ったパドマサンバヴァが崖で瞑想し、地元の悪霊を鎮めて仏教の守護者に転生させた伝承が残されています。
タクツァン僧院
17世紀に関連施設が建てられて現在の姿となりますが、1998年の火災で焼けて5年ほどかけて元通りに修復されました。
鉄の伝来とタチョガン・ラカン
タチョガン・ラカンは、ブータンに鉄を持ち込んだと言われるタントン・ギャルポが13世紀に建てたといわれる寺院です。ブータンでは珍しいドゥク派以外の寺院で、現在は私有の寺院で参拝はできません。タチョガン・ラカンまでのパロ川に架かるタチョガン橋は、東ブータンのドゥクスムから運ばれてきた鉄を使いタントン・ギャルポが架橋しました。1969年の洪水で流されたため、2006年に各地に残されていたつり橋の鉄鎖をかき集めて再建されました。
タチョガン・ラカン
ブータンに鉄を持ち込んだと言われるタントン・ギャルポが13世紀に建てたといわれる寺院です。
タチョガン橋
ルンタと呼ばれる五色の旗が掲げられています。ルンタは経文を印刷した魔除けの旗で、ルンタがなびく度に経文を唱えた功徳があります。
ブータンの誕生
1616年にドゥク派の総本山ラルン寺の座主の後継者を巡り争いが起こりました。16代座主ミパム・チェキ・ギャルポの後継者をペマ・ギャルポの化身ラマ(転生)として自身の孫であるガワン・ナムゲルを17代座主に据えようとしました。このラマの系譜を自らの血統に取り込もうとしたことを発端として内紛が起こりました。この内紛にチベット中央政府が介入して、ドゥク派は南北に分裂することになりました。後継者争いで敗れたガワン・ナムゲルは1616年に南ドゥク派として現在のブータンに移住して自らの政権を樹立しました。これが国家としてのブータンの始まりとなります。
パロ市街
パロ川の浸食で作られた盆地で、交通の要衝のためチベットの侵攻を防ぐために要塞が置かれました。
パロ市街
背の低い建物と畑が広がるのどかな町です。
城塞としてのパロ・ゾン
チベット仏教寺院の跡地に建てたパロ・ゾンは、正式名称を宝石の山の意味を持つリンプン・ゾンと言います。チベットとインドの交通の要衝にあるパロは、チベットの攻撃の対象となるため、1644年にガワン・ナムゲルが建造しました。パロ・ゾンは1897年の地震を耐え抜きましたが、1907年の火災で壊滅的被害を受けて再建されました。
パロ・ゾン
チベットの侵攻に備えて、1644年にガワン・ナムゲルがパロ川のほとりに建てた城塞です。
パロ・ゾン
宝石の山の意味を持つリンプン・ゾンと言い、僧院としての性質も兼ね備えています。
ニャマイ・ザム
1969年の洪水で流されて再建されたもので、キアヌ・リーブス主演の映画リトルブッダのロケ地にもなりました。
タ・ゾン
パロ・ゾンの背後の山に見張りの塔として建造されました。1968年から国立博物館として美術品などが展示されています。
内乱の鎮圧と現在
シャブドゥン・ガワン・ナムゲルはブータンを団結させて国家としての団結力を強めることに成功し、チベットやモンゴルの支配下においてもドゥク派を国教として民衆に浸透させ、国家としての基礎を固めることに成功しました。ジグミ・ナグメルはパロやプナカの内乱を制圧し、パロで自身の地位を固めました。その息子ウゲン・ワンチュクも存在感を強め、1833年にはブータン最後の内戦チャンリミタンの戦いで4000人の兵を率いてティンプーとプナカの反乱軍を撃破して内乱の時代に終止符を打ちました。
パロ国際空港
ブータンの空の玄関口としてパロ国際空港が造られました。のどかな雰囲気で鳥のさえずりさえも聞こえる静かな空港です。
パロ国際空港
国際空港と呼ぶには小さすぎる空港で、飛行機は3機のみで滑走路は1本しかなく地方空港のような簡素な造りです。
パロ農場とダショー西岡
ブータンで最も有名な日本人は、ブータンの農業の父と呼ばれる西岡京治氏です。ブータン国王から最高に優れた人を意味するダショーの称号を贈られ、現地ではダショー・ニシオカとも呼ばれます。西岡氏は1964年に海外技術協力の一環としてブータンに赴任すると、ブータン国王からパロ農場を与えられ野菜の試験栽培を始めました。やがてブータン各地で活動を行うようになり、28年にわたり日本から導入した野菜の栽培および品種改良・荒地の開墾などを行いました。
マーケット
西岡氏は28年にわたり日本から導入した野菜の栽培、品種改良や荒地の開墾などを行いました。マーケットには多くの野菜が並びます。
西岡チョルテン
1992年にティンプーで逝去すると、ブータン政府は40人の僧侶が経を唱える盛大な国葬を行い5000人以上が弔問に集まりました。