歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

プナカ

ブータン・プナカのプナカ・ゾン

プナカはプナカ県の都市です。標高は1300メートルほどありますが、ブータンの都市としては低い方です。ポ・チュ川とモ・チュ川という2つの川が合流してできるプナツァン・チュ川に沿ってのどかな田園地帯と美しい棚田が広がります。プナカはティンプーが通年の首都となるまで300年もの間冬の都として栄えました。ブータンの都市としては標高が低く亜熱帯気候で米の二期作が可能でサボテンやバナナも生い茂ります。

概要

面積
不明
標高
1,242m
人口
6262 (2017年)
地図

歴史

プナカはチベット仏教が浸透して、破天荒な遊行僧ドゥクパ・クンレーが布教を行いました。17世紀にブータンが建国されると、ブータンで最も美しいと言われるプナカ・ゾンを中心として統治が行われました。1950年代にはティンプーが整備されて首都が遷都され、比較的温暖なプナカは冬の首都と位置づけられました。

チベット仏教の伝来

ブータンはチベット(吐蕃)の一つの地域で、チベットを統一したソンツェン=ガンポが7世紀初めに布教のために108の寺院を建てました。746年にパドマサンバヴァがチベット仏教(ニンマ派)を伝えているため、チベット仏教が浸透していたと考えられます。チベット仏教ドゥク派の僧侶ドゥクパ・クンレーは、神通力・変幻自在力などの能力を身につけて遊行者としてプナカにも訪れました。酒と女が大好きな掟破り僧侶で、まぐわいにより女性たちを清めていたと言います。

ブータン・ティンプーのプナカ

プナカ

のどかな田園風景が広がり、田畑の中に民家や寺院が点在しています。

ブータン・ティンプーのプナカ民家

プナカ

男根信仰が根付いており、魔除けのために家の壁に描いていたり、この形のモニュメントが設置されています。

チミ・ラカン

チミ・ラカンはロベサという小さな集落の先にある田園風景が広がる山の上に1499年にドゥク派が建てた寺院です。遊行僧ドゥクパ・クンレーが滞在して様々な奇跡を起こした逸話があり、この寺院は子宝に恵まれる効験があると云われます。そのため子宝祈願や子供ができた喜びの報告に絶えず人が訪れています。

ブータン・プナカのチミ・ラカン

チミ・ラカン

ドゥク派が建てた小さな寺院で、建物の内部は残念ながら撮影が禁止されています。

ブータン・プナカのチミ・ラカン

チミ・ラカン

境内にある土台と頭が白色のチョルテンは、ドゥクパ・クンレーが建てたチョルテン(仏塔)です。

ブータンの誕生

1616年にドゥク派の総本山ラルン寺の座主の後継者を巡り争いが起こりました。16代座主ミパム・チェキ・ギャルポの後継者をペマ・ギャルポの化身ラマ(転生)として自身の孫であるガワン・ナムゲルを17代座主に据えようとしました。このラマの系譜を自らの血統に取り込もうとしたことを発端として内紛が起こりました。この内紛にチベット中央政府が介入して、ドゥク派は南北に分裂することになりました。後継者争いで敗れたガワン・ナムゲルは1616年に南ドゥク派として現在のブータンに移住して自らの政権を樹立しました。これが国家としてのブータンの始まりとなります。

ブータンの国獣ターキン

国獣ターキン

龍に似ているため国獣に指定されており、ティンプーのモティタン・ターキン保護区で保護・飼育されています。

ブータン・プナカのプナカ・ゾン

プナカ・ゾン

チベットの侵攻を防ぐため、ガワン・ナムゲルは各地にゾンを建造しました。プナカ・ゾンは国王の戴冠式が行われる格式の高いゾンです。

プナカ・ゾン

ブータン建国の祖であるガワン・ナムゲルは、1637年にプナカ・ゾンを建造しました。これに反発したラマ5派はチベット軍の援助によりブータンを攻めましたが、ガワン・ナムゲルはこれを撃退して王政を確立しました。プナカ・ゾンはブータンで2番目に大きく2番目に古いブータンで最も美しいゾンと言われています。国王の戴冠式や結婚式なども執り行われるブータンでも格式の高い寺院ではありますが、洪水で何度も被害を受け、1832年には大火災、1897年には大地震で大きな被害を受けました。

ブータン・プナカのプナカ・ゾン

プナカ・ゾン

ブータン建国の祖であるガワン・ナムゲルは、1637年にポチュ川(父川)とモチュ川(母川)の合流地点にプナカ・ゾンを建造しました。

ブータン・プナカのプナカ・ゾン

プナカ・ゾン

ブータンで2番目に大きく2番目に古いゾンで、国王の戴冠式や結婚式なども執り行われるブータンでも格式の高い寺院です。

ブータン王政の成立

19世紀にインド北部のアッサムやベンガルを植民地としたブータンは、1864年にインドの植民地を進めるイギリスと第1次ドゥアール戦争に発展しました。敗れたブータンは1865年にシンチュラ条約を締結し、アッサム、ベンガル、ドゥアールの領土を喪失する代わりに年間5万ルピーの補償金を受け取ることになりました。初代国王ウゲン・ワンチュクは1910年にプナカで、シンチュラ条約の改訂版と言えるプナカ条約を締結してイギリスの保護下に入り現在のブータンの王制が誕生しました。

ティンプーへの遷都

1950年代の3代国王ジグメ・ドルジ・ワンチュクは、ティンプーの都市整備を進めて首都をプナカからティンプーに遷しました。この頃のブータンは鎖国しており、ブータン遷都は世界に知られていませんでした。1958年に植物学者の中尾佐助氏がブータンを探検したときに遷都の事実を知り世界に知られるようになりました。プナカは比較的温暖な気候から、1995年から冬の首都が置かれるようになりました。

ブータン・プナカの日本軍の大砲跡

ティンプー

1958年に植物学者の中尾佐助氏がブータンを探検したときにプナカからティンプーに遷都されていることが判明しました。

ブータン・ティンプーのタシチョ・ゾン

タシチョ・ゾン

1771年に現在の地に移転した要塞兼寺院で、ブータン中央省庁とドゥク派の総本山があります。