栄華のサン・ピエトロ大聖堂
バチカンは、ローマ教皇(聖座)により統治される国家でカトリック教会の総本山になります。面積が狭い独立国家ではありますが人口は600人ほどが住み、観光客や聖地巡礼の人がとても多く訪れます。バチカンの中心になるサン・ピエトロ大聖堂は、有名な建築家や芸術家により大聖堂は設計、改築、装飾された世界で一番大きなカトリックの大聖堂です。
聖ペトロの生涯
キリストの一番弟子と言われるはペトロは、ガリラヤ湖でキリストと出会いキリストに従うようになりました。ペトロは常にキリストの傍らにいましたが、キリストが処刑されることになると、キリストはペトロに対して「鶏が鳴く前に3度私のことを知らないと言うだろう」と予言し、予言通りペトロは3度キリストを否認しました。ペトロはこれを後悔し、のちにペトロは人びとの病を治してまわり、ユダヤの祭司たちに反論して多くの信徒を獲得していきました。しかし、ローマで大火災が発生すると皇帝ネロはローマの神を崇拝していないキリスト教徒の仕業としてキリスト教徒の迫害を始め、ペトロは67年にネロの競技場で自らの遺志により逆さ十字の刑に処されて命を落としました。殉教したペトロは、初代ローマ教皇と見なされています。
サン・ピエトロ大聖堂
中央に聳えるオベリスクは、かつてペトロが処刑されたネロ皇帝の競技場から1586年に教皇シスト5世が移設したものです。
ペトロのブロンズ像
聖ペトロのブロンズ像は、足に触れて祈ると願いが叶うと信じられていたため、多くの巡礼者に触れられて足が擦り上げられています。
サン・ピエトロ大聖堂の建立
313年にコンスタンティヌス帝とリキニウス帝はミラノ勅令でキリスト教などの信仰を認め、キリスト教をローマ帝国の国教としました。コンスタンティヌス帝は325年にはニカイア公会議を開き、キリスト教の教義の統一を図り、326年にはサン・ピエトロ大聖堂の前身となる聖ペトロの墓地として大きな教会堂を建立しました。こうして多くの歴代教皇の墓が置かれるようになり、バチカンはカトリック最高位ローマ教皇の本拠地となりました。
サン・ピエトロ大聖堂
世界最大のカトリック大聖堂です。
サン・ピエトロ大聖堂の改築
16世紀になると教皇ユリウス2世が新しい聖堂の建立に着手し、ルネサンスからバロック時代の17世紀までブラマンテ、ラファエロ、ミケランジェロ、ベルニーニなど多くの芸術家が携わり現在の姿になりました。サン・ピエトロ大聖堂は壮大なスケールと芸術品が並び、ミケランジェロ作のピエタ像やミケランジェロが設計したクーポラやベルニーニ作の天蓋をはじめ博物館並みの美術品は価値があるものばかりです。
サン・ピエトロ広場
大聖堂への入場を並ぶ長蛇の列です。
ミケランジェロ建築
ルネサンスの巨匠ミケランジェロは、パンテオンのドームを参考にクーポラを設計しました。クーポラは高さ136メートルあり、ドームを中心に縦軸と横軸の長さが同じギリシャ十字の形をデザインされています。ミケランジェロが亡くなり引き継いだマデルノは、教皇パウロ5世の意思に従い縦軸を186メートルまで伸ばして、現在のラテン十字の形に変更しました。これにより世界で一番大きなカトリックの大聖堂となりました。
サン・ピエトロ大聖堂クーポラ
ミケランジェロが設計したクーポラで、ドームを中心に縦軸と横軸の長さが同じギリシャ十字の形をデザインされています。
サン・ピエトロ大聖堂ピエタ像
ミケランジェロが24歳のときに製作したもので、教皇ユリウス2世はこのピエタ像を大変気に入り、自分の記念碑をミケランジェロに頼んだと言います。
ベルニーニ建築
マデルノの後を引き継いだバロックの巨匠ベルニーニは、ドームの下に大きなブロンズの天蓋を製作し、その下に教皇の主祭壇を置きました。ドームを支える支柱に4体の彫刻を備えることでミケランジェロのルネサンス様式とバロック様式を融合させています。さらにサン・ピエトロ大聖堂が完成すると、その正面に約20万人が収容できるサン・ピエトロ広場を造営しました。
ベルニーニの噴水
双子の噴水で反対側にはマデルノの噴水があります。
サン・ピエトロ大聖堂の主祭壇
主祭壇(バルダッキーノ)は9年間かけて製作され、ペトロの墓のうえに建てられました。
バチカン市国の成立
1870年に普仏戦争が始まるとイタリア統一され教皇領がイタリア王室に没収されました。教皇ピウス9世はこれを拒否してバチカンの囚人として1870年から1929年までバチカンに引きこもりました。ピウス11世の時代になると、教皇の全権代理ガスパッリ枢機卿とムッソリーニ首相の合議が成立してラテラノ条約が結ばれ、バチカンは独立国家となりました。