歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

小樽市

北海道小樽市の小樽運河

小樽市は北海道西海岸のほぼ中央に位置し、北は石狩湾に面しています。天然の良港である小樽港を中心に発展し、古くから貿易や漁業で栄えました。北海道経済の中心地として北のウォール街と呼ばれた町並みは、第二次世界大戦の戦禍を免れて今も残されています。

概要

面積
243.83km2
人口
110,946人(2021年)
市の木
シラカンバ
市の花
ツツジ
市の鳥
アオバト
地図

歴史

アイヌ語で砂浜の中の川を意味するオタルナイに由来する小樽市は、石狩湾とともに発展してきました。江戸時代にニシン漁などを営む人びとが集落を形成し、明治時代にニシン漁や石炭の搬出港として栄えました。北のウォール街と呼ばれるほど発展しましたが、次第に衰退して斜陽のまちと称されるようになりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

縄文時代早期の塩谷3遺跡が市域最古の遺跡になります。市域の8割が縄文時代後期の遺跡で、忍路環状列石や地鎮山環状列石などの環状列石が残されています。

北海道小樽市の忍路環状列石

忍路環状列石

忍路地区の小さな河岸段丘上に残る縄文時代後期のストーンサークルです。北海道最大級の環状列石で水場遺構を含む生活の場が確認されました。

北海道小樽市の地鎮山環状列石

地鎮山環状列石

地鎮山山頂にある縄文時代後期の小型のストーンサークルです。12個の小型の立石が楕円形に配置されています。

古墳時代、飛鳥時代

北海道は水稲耕作が定着せず続縄文時代となり、北方との交流が盛んでサハリン製の耳飾りが出土しています。

北海道小樽市の手宮洞窟

手宮洞窟

4~5世紀に続縄文文化を続けていた人びとが生活していました。日本海をはさんだ北東アジアと交流を行い、岩壁にさまざまな文様を刻みました。

奈良時代、平安時代

奈良時代から室町時代にかけて擦文時代を迎えました。擦文時代の遺跡は蘭島遺跡群、チブタシナイ遺跡群や船浜遺跡など河口近くの微高地に広がりますが、遺跡の数は続縄文時代と比べて大きく減少します。本州や北方地域との交易が盛んに行われ、本土からもたらされた鉄製品などが発見されています。

鎌倉時代、南北朝時代

13世紀から17世紀にかけてアイヌ文化が花開きました。

室町時代、安土桃山時代

アイヌ文化圏に置けれていましたが、文献には特に残されていません。

江戸時代

慶長年間(1596~1610年)に松前藩が家臣に与える土地として開拓を行いました。江戸時代後期にニシン漁やサケ漁のために和人が本格的に進出し、北海道から大阪まで日本海を巡る北前船が行き来するようになりました。慶応元年(1865年)に小樽は箱館奉行所の出先の村並となりました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治政府は札幌を北海道の拠点とすべく、物資の供給基地として小樽港の整備に着手しました。明治13年(1880年)には北海道初の鉄道となる官営幌内鉄道が敷設され、小樽港は石炭の搬出港となりました。小樽はニシン漁の最大の拠点として、ロシアをはじめとする海外との国際貿易港として発展し、大正11年(1922年)には小樽市が誕生しました。

斜陽のまち

小樽のニシン漁は、第二次世界大戦の直前に乱獲で漁獲が減少し、昭和33年(1958年)に操業を停止しました。昭和30年代にはエネルギー政策の転換で石炭の需要が低下し、港湾貨物の情勢変化により港勢が失速しました。昭和30年代後半になると銀行や商社などの撤退が相次ぎ、主要産業を失うことで小樽は斜陽のまちと化しました。

北海道小樽市の北一硝子

北一硝子三号館

明治24年(1891年)に木村倉庫初代社長・木村円吉が建造しました。かつては小樽軟石が使用されたニシンなどの漁業用倉庫でした。

北海道小樽市の日本銀行旧小樽支店

日本銀行旧小樽支店

明治45年(1912年)に辰野金吾・長野宇平治らの設計により建築されました。現在は金融資料館として日本銀行の歴史などが展示されています。

北海道小樽市の小樽オルゴール堂

小樽オルゴール堂

大正4年(1915年)に米殻商が本社屋として建造した歴史的な建造物を利用し、平成元年(1989年)に小樽オルゴール堂となりました。

北海道小樽市の小樽運河

小樽運河

大正12年(1923年)に完成した運河で、大型船と倉庫の間で荷物の受け渡しをする「はしけ荷役」を効率化する目的がありました。

北海道小樽市の北菓楼小樽本館

北菓楼小樽本館

昭和12年(1937年)に創業した日藤商店の倉庫を利活用しています。小樽軟石を使用しているため黒い石造建築物です。