盛岡市

盛岡市は岩手県の中央部の北上盆地に位置し、北上川、雫石川、中津川が合流する豊かな水辺の都市です。岩手県の県庁所在地であり、北東北の中心的な都市です。盛岡三大麺として、わんこそば、盛岡冷麺、盛岡じゃじゃ麺が有名で、伝統工芸品として南部鉄器や南部紫根染・茜染などがあります。
概要
- 面積
- 886.47km2
- 人口
- 286,219人(2022年10月1日)
- 市の木
- カツラ
- 市の花
- カキツバタ
- 市の鳥
- セキレイ
- 地図
歴史
盛岡市域は蝦夷と呼ばれた人びとが続縄文文化を続けていました。坂上田村麻呂は北東北の拠点として志波城を築城し、次第に大和政権の支配下へと組み込まれていきました。後三年の役を経て武家が支配するようになると、南部氏が支配を強めて盛岡藩を立藩しました。盛岡城下町は領内で得られる金、馬、海産物の取引など政治・経済の中心地として栄えました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
盛岡市の歴史は、小石川遺跡で旧石器時代の石器が見つかることに始まります。大新町遺跡からは縄文時代草創期の爪形文土器が見つかり、縄文時代中期の繋遺跡、大館町遺跡、柿ノ木平遺跡、川目遺跡からも遺物が見つかります。向田遺跡や手代森遺跡からは、弥生時代前期の砂沢式の高坏や壷が出土しています。

大館町遺跡
縄文時代中期の大規模な集落跡で、竪穴住居跡や食料の貯蔵穴などが見つかりました。日本最大級の縄文土器やたくさんの板状土偶が出土しました。
古墳時代、飛鳥時代
北海道を中心とした縄文時代的な暮らしを続けた北方の続縄文文化と大和王権の影響を受けた大型古墳を作る古墳文化が合流する地でした。畿内から蝦夷と呼ばれた族長は、高舘古墳や永井古墳群のほか、上田蝦夷森古墳群に葬られました。
奈良時代、平安時代
延暦22年(803年)に桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂が北東北経営の拠点として志波城を造営しました。志波村の範囲は斯波郡、雫石川以北は岩手郡と呼ばれました。林崎遺跡や大宮遺跡、大島遺跡などでは蝦夷系豪族の大型建物群跡が見つかります。
前九年の役と後三年の役
蝦夷勢力の安倍氏が奥六郡を統治しましたが、大和政権に反旗を翻して前九年の役となりました。これを契機として後三年の役となり、奥州藤原氏による平泉政権が成立して武家が治める時代になりました。

志波城跡
征夷大将軍・坂上田村麻呂が造営した古代陸奥国最北かつ最大級の城柵です。現在は志波城古代公園として復元整備されています。

盛岡八幡宮
康平5年(1062年)に源頼義が前九年の役で進軍したときに源氏の氏神である石清水八幡宮から勧請して戦勝祈念したと伝えられます。
鎌倉時代、南北朝時代
源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼして鎌倉幕府が成立すると、岩手郡には工藤氏、斯波郡には足利氏が地頭として入りました。
室町時代、安土桃山時代
紫波郡の斯波氏、岩手郡東部の河村氏一族、不来方の福士氏などが領地を支配しました。斯波氏は三戸を拠点とする南部氏と覇権を争い、斯波氏を滅ぼした南部信直が豊臣秀吉から岩手郡を含む南部7郡の本領を安堵され、盛岡藩が誕生します。
江戸時代
2代藩主・南部利直は城下町の建設を進め、現在の盛岡市街地の原型となりました。寛永10年(1633年)に3代藩主・南部重直が盛岡城に入城して盛岡藩南部氏の居城としました。3代藩主・南部重信は新田開発や金山開発を行いましたが、天明の大飢饉で人口の4分の1にあたる餓死者を出すなど度重なる飢饉で財政難に陥りました。寛政4年(1792年)のラクスマン来航事件により盛岡藩は蝦夷地警護を命じられ財政は更に悪化し、三閉伊一揆などの一揆が頻発しました。

盛岡城跡
慶長2年(1597年)に初代藩主・南部信直が南部利直を総奉行として、福士氏の不来方城に築城を始めたと伝えられています。

上田一里塚
慶長15年(1610年)に築造されたと伝えられる一里塚で、昭和初期まで2基ありましたが、現在は1基のみ現存しています。

高畑一里塚
盛岡と三陸海岸の宮古を東西に結ぶ宮古街道にある一里塚です。現在も2基残る一里塚は、高畑一里塚と梁川一里塚のみです。

新塚一里塚
玉山区芋田の旧奥州街道に残されている一里塚で、東側の1基のみ残り、西側の塚は国道4号線の拡幅工事で消滅しました。

小野松一里塚
盛岡から北に向かう奥州街道にある一里塚で、東西に2基残されています。西側塚の東部が若干欠損していますが、全体的に良好に残されています。

塚の沢一里塚
玉山区藪川外山の旧小本街道をはさんで南北に2基残ります。この位置は毘沙門堂平一里塚から西方42町にあたります。

毘沙門堂平一里塚
玉山区藪川逆川の旧小本街道にある一里塚で、道は雑木林でふさがれていますが、塚は1基残されています。

大橋一里塚
盛岡と三陸海岸の小本を結ぶ小本街道にある一里塚で、玉山区大字藪川字亀橋にあります。南北に2基残されています。

末崎川一里塚
盛岡と三陸海岸の小本を結ぶ小本街道にある一里塚で、2基残されていますが、街道に面する北側の塚は道路拡幅工事により欠損しています。
明治時代、大正時代、昭和時代
盛岡藩が解体されて盛岡県となり、明治4年(1872年)に盛岡県から岩手県に改称されました。明治22年(1889年)には全国39都市のひとつとして盛岡市が誕生しました。明治38年(1905年)には川目に県内初の水力発電所である旧宇津野発電所が建設されました。

旧盛岡銀行旧本店本館
明治44年(1911年)に建築家辰野金吾と葛西萬司により建設され、ルネサンス様式の建物は赤レンガの愛称で親しまれています。