塩竈市

塩竈市は宮城県のほぼ中央に位置し、奥州一の宮鹽竈神社の門前町や港町として栄えてきました。沖合で親潮と黒潮が合流する豊かな漁場があり、日本一のマグロの水揚港として新鮮な魚介類が豊富に水揚げされます。塩竈は寿司屋の密度が日本一と言われ、港町独特の食文化が形成しました。
概要
- 面積
- 17.37km2
- 人口
- 51,578人(2022年2月1日)
- 市の木
- シオガマザクラ
- 市の花
- シラギク
- 地図
歴史
古くから塩釜湾の恩恵を受けてきた地域で、陸奥国府である多賀城への荷揚港として、藩政時代には伊達藩の港として、明治以降は国内有数の港湾都市として発展しました。近代には近海・遠洋漁業の基地としても発展しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
狩猟、漁撈、採集を中心とした縄文人たちは、松島湾が生産性の高い豊かな森と漁場で活動しました。早期~中期の船入島貝塚、早期の野々島貝塚、前期・中期の桂島貝塚、中期の浦戸貝塚、晩期の薬ヶ崎貝塚と内裡島A貝塚が確認されています。
古墳時代、飛鳥時代
豪族が出現して、一本松横穴墓群や清水沢横穴墓群が造営されました。皇極天皇4年(645年)の大化の改新により蝦夷征討が行われるようになりました。
奈良時代、平安時代
松島湾のほとんどの島で土器による製塩が行われました。松島湾沿岸は国府の多賀城の管理下で軍事用の塩を供給する一大生産地となりました。貞観11年(869年)の貞観地震が発生しました。

鹽竈神社
東北鎮護・陸奥国一之宮として古くから崇敬を集めてきました。近年では人気アニメ鬼滅の刃の聖地の一つとして注目されています。

文治の燈籠
文治3年(1187年)に藤原忠衡が寄進した燈籠です。藤原忠衡は父の遺言を守り、最後まで源義経を守護したため兄の藤原泰衡に討たれました。
鎌倉時代、南北朝時代
文治5年(1189年)に源頼朝が奥州藤原氏を滅亡に追い込み、建久元年(1190年)に伊沢左近将監家景が陸奥国留守職として派遣されました。
室町時代、安土桃山時代
駒犬城が留守政景により攻められ、留守家臣の佐藤太郎左衛門が他郡に敗走しました。天正18年(1590年)に小田原征伐と奥州平定を成し遂げた豊臣秀吉は留守政景の所領を没収し、伊達政宗が支配するようになりました。
江戸時代
元禄2年(1689年)に奥の細道の旅で訪れた松尾芭蕉が塩竃村門前の治平方に宿泊しました。海に近く飲み水に困る土地でしたが、安永7年(1778年)に鈴木勘右衛門が私財を投じて泉沢に堤を築いて飲み水を引きました。慶応3年(1867年)に慶応の大火が起こり、337戸が焼失しました。

籬が島
奥の細道の旅で松尾芭蕉が弟子の曾良とともに訪れた名勝です。古くから多くの歌に詠まれ、歌枕の地ともしても知られます。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で仙台藩が仙台県おとなり、翌年に宮城県に改められました。アジア太平洋戦争では度重なる空襲で多くの犠牲者が出ました。昭和27年(1952年)塩釜港が重要港湾に指定され、昭和35年(1960年)に特定第三種漁港に指定されました。

志波彦神社
明治7年(1874年)に仙台市岩切から鹽竈神社に遷祀されました。昭和13年(1938年)に築造された社殿は、全額国費で賄われた最後の神社です。

マリンゲート塩釜
平成8年(1996年)に完成した旅客ターミナルです。日本三景松島の海の玄関口で、観光遊覧船や浦戸諸島を結ぶ市営汽船が発着します。