角田市

角田市は、宮城県南部に位置する山に囲まれた穏やかな気候のまちで、南北を貫流する阿武隈川の流域に肥沃な耕土が広がります。宮城県内でも有数の米作地帯で、リンゴや梨、梅などの果樹栽培が盛んです。繭工芸などの産業が生まれ、金津七夕が伝統行事として残されています。
概要
- 面積
- 147.53km2
- 人口
- 27,357人(2022年2月1日)
- 市の木
- カシ
- 市の花
- リンドウ
- 地図
歴史
江戸時代に伊達家一門である石川氏を領主としました。角田石川氏は大洪水を繰り返す阿武隈川の治水工事を進め、その一環として桑を植えたことで養蚕産業が生まれました。阿武隈川の大洪水は大きな被害を与えつつも肥沃な大地を形成し、宮城県で有数の米作地帯となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
縄文時代前期に阿武隈川沿いに土浮貝塚が形成し、縄文時代中期から晩期にかけて梁瀬浦遺跡に集落が形成しました。弥生時代には稲作が始まり、鱸沼遺跡で炭化米が発見されています。

梁瀬浦遺跡
縄文時代中期から晩期にかけて形成した集落跡です。阿武隈川は流路を変えながら自然堤防を形成し、湖沼や低湿地帯が広がりました。
古墳時代、飛鳥時代
5~6世紀に横倉・長泉寺・山中などに横倉古墳群などが造営し、7世紀に巨大な横穴式石室を持つ大久保古墳が造営されました。
奈良時代、平安時代
伊具郡が成立して、角田郡山遺跡に伊具郡衙が置かれていました。永承6年(1051年)に伊具十郎永衡が安倍頼時の娘を娶り伊具に住み、伊具郡の豪族である平永衡が八竜城を築城しました。

高蔵寺
弘仁10年(819年)に徳一菩薩が創建したと伝えられます。治承元年(1177年)に藤原秀衡の妻が阿弥陀堂を建立しています。
鎌倉時代、南北朝時代
源頼朝の欧州征伐で奥州藤原氏が滅亡すると伊具郡は千葉氏に与えられ、千葉氏一族の武石三郎胤盛が地頭職となりました。
室町時代、安土桃山時代
永禄8年(1565年)に伊達稙宗が死去すると、伊達稙宗の世話役をしていた相馬氏が領有権を主張して支配しました。丸森城を巡り伊達氏と相馬氏の抗争が繰り返され、天正11年(1583年)に伊達輝宗が丸森城を攻略して所領を回復しました。天正19年(1591年)に伊達政宗が奥州仕置で岩出山城に移ると、南方の抑えのために伊達成実が角田城に入りましたが、文禄4年(1595年)に伊達成実が出奔し、慶長3年(1598年)に伊達政宗の叔父にあたる石川昭光が伊具角田に移封されました。
江戸時代
元和5年(1619年)に石川宗敬が、伊達政宗の次女・牟宇姫を娶り関係を強固としました。石川氏は台山一帯に石川家の霊廟地を置きました。文政元年(1818年)に子弟を教育するため、石川宗光が成教書院を創設しました。幕末の戊辰戦争で仙台藩が降伏すると角田の武士はほとんどが帰農し、一部が北海道開拓で室蘭に移住しました。
度重なる洪水
寛永14年(1637年)の阿武隈川の大洪水で防波堤が決壊して大きな被害を生じました。阿武隈川からの逆流を防ぐ閘門が設置され、寛文4年(1664年)に新川開削が行われました。享保8年(1723年)に阿武隈川で大洪水が起きると、石川村満は自らも鍬を持ち堤防改築に努めました。水害地には大規模な造林が進められ、植林された桑を活かして養蚕が盛んになりました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治2年(1869年)に白石県が角田県と改称されて県庁が置かれましたが、明治4年(1871年)に仙台県に統合されて翌年に仙台県が宮城県に改称されました。明治21年(1888年)に泉麟太郎らが北海道アノロ原野を開拓して角田村を創設しました。昭和33年(1958年)に角田市が誕生しました。