歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

多賀城市

宮城県多賀城市の東北歴史博物館

多賀城市は宮城県仙台市の北東に位置します。奈良時代に設置されてから東北の政治・文化・軍事の中心地として北の都として賑わいました。現在は幹線道路沿道を中心に商業施設の立地が進み、臨海部は大規模な工業地帯が形成しています。

概要

面積
19.69km2
人口
62,584人(2022年2月1日)
市の木
サザンカ
市の花
アヤメ
地図

歴史

大和王権は、蝦夷と呼ばれた人びとを支配する拠点として多賀城を建設しました。多賀城を中心に都市が形成し、東北の政治、文化、軍事の中心地として栄えました。明治時代を迎えると多賀城海軍工廠が置かれ、戦後にその跡地に多くの工場が誘致されて臨海工業地帯を形成していきました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代の寒冷期が終わりを迎えると、縄文人が狩猟採集や漁撈を行うようになり、松島湾沿岸には金堀貝塚や大代貝塚などの多くの貝塚が残されました。松島丘陵の五万崎遺跡には集落が形成し、縄文時代中期の土器が出土しています。弥生時代には稲作文化が伝えられ、山王遺跡や新田遺跡から水田跡が見つかりました。

古墳時代、飛鳥時代

4世紀から5世紀にかけて丸山囲古墳が造営され、6世紀から7世紀に稲荷殿古墳や大代横穴墓、田屋場横穴墓が造営されました。この地域では続縄文土器や黒曜石の石器が出土しており、北方の人びとが古墳文化の人びとと交易が行われていました。

奈良時代、平安時代

神亀元年(724年)に大野東人が多賀城を建設して、天平宝字6年(762年)に藤原恵美朝臣朝獦が多賀城を修造しました。宝亀11年(780年)の伊治公呰麻呂の乱を経て、多賀城を中心とした大規模な都市建設が開始されました。貞観11年(869年)の貞観の大地震で大きな被害を受けました。陸奥国の安倍頼時を討伐する前九年の役で、源頼義が多賀城から出陣しました。前九年の役を端緒として後三年の役となり、奥州を与えられた藤原清衡が奥州藤原氏の祖となりました。

宮城県多賀城市の多賀城跡

多賀城跡

神亀元年(724年)に大野東人が陸奥国と出羽国を抑える拠点として建設し、蝦夷を支配するための軍事的な役割もありました。

宮城県多賀城市の多賀城廃寺跡

多賀城廃寺跡

多賀城に付属する寺院で金堂、三重塔、講堂が建てられていたと考えられています。大宰府の観世音寺に似ているため観音寺である可能性があります。

宮城県多賀城市の壺碑(つぼの石ぶみ)

壺碑(つぼの石ぶみ)

8世紀頃に建てられた多賀城碑は、歌枕として多くの和歌に詠まれました。多胡碑、那須国造碑とともに日本三大石碑に数えられています。

鎌倉時代、南北朝時代

源頼朝は奥州藤原氏を滅亡させますが、建久元年(1190年)に大河兼任が鎌倉幕府に反旗を翻しました。源頼朝は大河兼任に加担した留守職を解任して伊沢家景を派遣し、伊沢氏は留守氏を称するようになりました。建武の新政を始めた後醍醐天皇は皇子の義良親王を多賀国府に派遣し、北畠顕家を陸奥守に任命しました。足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと北畠顕家は義良親王を奉じて京都で足利尊氏を九州へ敗走させますが、奥州では足利方が勢力を盛り返したことで伊達氏を頼り伊達郡霊山に移りました。

室町時代、安土桃山時代

足利尊氏と弟の足利直義が争う観応の擾乱で、尊氏方の留守氏は多賀国府の役人出身で直義方の八幡氏と争いました。戦いは八幡氏が勝利して留守氏は一時没落しますが、尊氏方が勝利したため留守氏は再興しました。八幡氏は衰退して留守氏の家臣団の一員となり、留守氏は伊達氏の入嗣を受け入れて伊達氏の一門衆として活躍することになります。

江戸時代

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにより、伊達政宗の所領が確定して仙台城の築城と城下町の整備が進められました。知行地を与えられた家臣団は新田開発を行い、Ÿ仙台城下への水運や野谷地開発の排水のため小曳堀や御舟入堀が開削されました。市域には13氏の知行地があり、このうち天童氏は涌谷伊達家から養嗣子を迎えて伊達安芸宗重が当主となり、寛文事件の中心人物となりました。

宮城県多賀城市の興井

興井

歌枕として小野小町や二条院讃岐らに歌で詠まれた奇石が連なる池です。松尾芭蕉が奥の細道の旅で訪れたことでも知られます。

宮城県多賀城市の末の松山

末の松山

平安時代から歌枕として歌に詠まれました。松尾芭蕉は奥の細道の旅で訪れて、歌枕の地が墓原と化している現実に無常を感じました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治9年(1876年)に明治天皇が多賀城などを巡幸されました。明治政府が始めた野蒜築港事業の一環として貞山運河の全面的な改修が始められ、明治20年(1887年)に改修が完了しました。昭和18年(1943年)に設置された多賀城海軍工廠は戦後に解体され、昭和39年(1964年)に新産業都市の指定を受けて多くの工場が誘致されて工業地帯が形成していきました。昭和46年(1971年)に多賀城市が誕生しました。