亘理郡

亘理郡は宮城県南部の太平洋沿岸に位置し、西部の阿武隈高地と東部の肥沃な土地からなります。温暖な気候と豊かな自然に恵まれて東北の湘南とも称され、東北一の生産量を誇るいちごは仙台イチゴの名称で出荷されています。
概要
- 面積
- 138.18km2
- 人口
- 44,929人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 亘理町、山元町
- 地図
歴史
江戸時代に伊達成実を初代当主とする亘理伊達家が治め、城下町の町割りや新田開発、治水工事などを積極的に行い亘理の礎を築きました。戊辰戦争で仙台藩が降伏すると亘理伊達家の所領は没収され、領主の伊達邦成は家臣を引き連れて北海道開拓を行いました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
縄文時代から人の営みが残され、北経塚遺跡、西石山原遺跡、谷原遺跡、中島貝塚、椿貝塚などが残されています。弥生時代に稲作文化が伝わり、中筋遺跡から水田跡が見つかりました。
古墳時代、飛鳥時代
特に記録は見つけられませんでした。
奈良時代、平安時代
律令体制が成立して亘理郡が成立して、天喜4年(1056年)頃に亘理権大夫・藤原経清が亘理郡に入部しました。亘理郡衙が三十三間堂官衙遺跡が残されていますが、奈良時代は別な場所に置かれていた可能性が高いです。

三十三間堂官衙遺跡
阿武隈川下流南岸の丘陵上に位置する平安時代の亘理郡衙跡と推定される遺跡です。広大な敷地の北側は役人が執務を行い、南側は米を収めた倉庫が建ち並びました。
鎌倉時代、南北朝時代
建久元年(1190年)に千葉氏一族の武石胤盛が源頼朝から亘理郡を与えられ、亘理氏の祖となりました。
室町時代、安土桃山時代
亘理氏は内紛で衰退し、伊達稙宗に従属するようになりました。天正19年(1591年)の奥州仕置で伊達政宗が岩出山に移されたことで亘理氏が涌谷へ転封となり、片倉小十郎景綱が治めました。
江戸時代
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て片倉景綱が白石城へ入ると、慶長7年(1603年)に伊達成実が亘理城主となりました。伊達成実は亘理城を改修し、城下町の町割りや新田開発、治水工事などを積極的に行いました。元和2年(1616年)には大條宗綱が坂元城に入部して幕末まで現在の山元町を治めました。
明治時代、大正時代、昭和時代
戊辰戦争で仙台藩が降伏すると亘理伊達氏の領地は没収され、明治3年(1870年)に伊達邦成が北海道開拓のため家臣団を引き連れて胆振国有珠郡へ移住を開始しました。平成23年(2011年)の東日本大震災で沿岸部を中心に壊滅的な被害を受けました。

中浜小学校
東日本大震災の津波から90人の命を守り抜いた校舎です。防災教育・震災伝承の場として公開されています。。

コダナリエ
東日本大震災の翌年から開催されている山元町の冬の風物詩です。被災した方を含め訪れる人を笑顔にしたい想いが込められています。