宮城郡

宮城県宮城郡は、宮城県の海岸部中央に位置します。日本三景のひとつ松島をはじめとする美しい景観があり、伊達家の奥座敷として発展しました。農林業や漁業が盛んで、利府梨などのブランドもあります。
概要
- 面積
- 111.64km2
- 人口
- 66,183人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 松島町、利府町、七ヶ浜町
- 地図
歴史
松島湾沿岸で縄文人たちが漁撈や狩猟採集をしながら生活した地は、製塩や須恵器などを焼いて多賀城に供給する地となりました。伊達氏が支配するようになると風光明媚な景観は伊達氏の奥座敷として多くの文人が訪れる地になりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
松島湾の沿岸で漁撈して生活する縄文人たちは、東北一の規模を誇る大木囲貝塚をはじめとする全国有数のおびただしい数の貝塚を造営しました。名込遺跡や九ノ島貝塚などには製塩の痕跡が残り、古くから製塩が行われていました。

大木囲貝塚
松島湾の南側を画するように突き出た七ヶ浜半島にある、縄文時代前期から後期初頭にかけて造営された貝塚を伴う集落跡です。

西の浜貝塚
松島湾の北西部にある東日本の代表的な貝塚で、縄文時代前期から長期間にわたり人の営みが残されています。古代の製塩土器なども出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
土を積み上げた古墳は諏訪古墳ほどしか発見されておらず、蝦穴横穴墓群や菅谷横穴墓群などの横穴古墳が多数造営されました。
奈良時代、平安時代
律令体制が整備されて宮城郡に属したと考えられていますが、平安時代まで東宮貝塚などの貝塚が造営されいます。松島湾の沿岸では塩が製造され、硯沢窯跡や大貝窯跡などで焼かれた須恵器や瓦などが多賀城へ運ばれました。

松島五大堂
大同2年(807年)に坂上田村麻呂が毘沙門堂を建立し、天長5年(828年)に慈覚大師円仁が五大明王像を安置して五大堂と呼ばれるようになりました。
鎌倉時代、南北朝時代
文治5年(1189年)に奥州藤原氏が源頼朝に滅ぼされると、松島には相馬氏が地頭として派遣されました。翌年の大河兼任の反乱で派遣された伊沢家景が陸奥国留守職に任ぜられ、子孫が留守氏を名乗るようになりました。留守氏の家臣である花淵紀伊は花淵城を居城とし、吉田右近は吉田城を居城としました。
室町時代、安土桃山時代
伊達氏が台頭してくると、留守氏は伊達氏の入嗣を受け入れて伊達氏の一門衆となりました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにより、伊達政宗の所領が確定して仙台城の築城と城下町の整備が進められました。
江戸時代
奥州街道の枝線である浜街道があり、塩竃神社や金華山参りの人びとが通りました。磯崎には仙台藩の塩田があり、江戸に米を送る中継地として旅館や休憩所がある宿場として栄えました。正徳元年(1711年)に道安寺住職山素嶺和尚が夢枕でお告げを受け、道安寺横穴古墳群を発見して黄金の不動明王が発見されました。

瑞巌寺
慶長14年(1609年)に伊達政宗が創建しました。古くから奥州の霊場と呼ばれる東北一の禅寺で、慈覚大師円仁が創建した奥州の四寺回廊のひとつとされます。

円通院三慧殿
伊達政宗の孫にあたる伊達光宗の霊廟で、正保4年(1647年)に瑞巌寺第百世の洞⽔和尚により建立されました。美しい厨子の右扉には西洋バラが描かれています。

松島
元禄2年(1689年)に松尾芭蕉が訪れました。正徳4年(1714年)に林鵞峰が著した日本国事跡考で天橋立、宮島とともに日本三景として紹介されました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で仙台県となり、翌年に宮城県と改称されました。明治17年(1884年)に日野藤吉が水田を畑にかえて梨の栽培を始めました。昭和27年(1947年)に昭和天皇が戦後巡幸に訪れて瑞巌寺で休憩されました。松島は飲料に困る土地であり、昭和29年(1954年)に水道が引かれました。

瑞巌寺御成門
明治9年(1876年)に明治天皇が東北巡幸され、瑞巌寺に宿泊されました。瑞巌寺御成門は天皇、皇族、藩主が使用する御成門です。
日本三景松島
松島は松島湾内外に浮かぶ260余りある島の総称です。京都の天橋立、広島の宮島とともに日本三景に選ばれています。古くから月の名所として知られており、仙台藩初代藩主・伊達政宗をはじめ、俳人・松島芭蕉やアルベルト・アインシュタインなども月見に松島を訪れました。

双子島と雄島
亀島と鯨島の双子島の背後に雄島があります。雄島は死者の霊が極楽浄土に渡る地として見仏上人が修行したほか、修行僧が刻んだ108体の仏像が残されています。

千貫島
伊達政宗は松の木が1本生えている姿を気に入り「この島を我が屋敷に運ぶものがあれば、金千貫をつかわす」と言われたことで千貫島と名付けられました。

毘沙門島
慈覚大師円仁が松島五大堂に五大明王を安置したとき、松島五大堂に安置されていた毘沙門天像が飛び立ち毘沙門島に降臨したと言われます。

在城島・鞍掛島
左側の在城島は伊達政宗が月見の宴を開いたとされ、「このように見渡す限りの視界なれば落城の憂いなし」と言われたことで在城島と呼ばれています。

鐘島
4つの穴があるのが特徴で、この穴に波が打ち寄せると釣鐘をたたいたように聞こえるとこから鐘島と呼ばれています。

小藻根島
小藻根島には長命穴と呼ばれるくぐると長生きする穴がありましたが、東日本大震災で崩れてしまいました。

仁王島
松島で最も有名な島で、松島仁王尊に例えて仁王島と言う名前が付けられました。

水島
松島湾の沖合にある水島は目印として道島と呼ばれていましたが、道島が訛り水島と呼ばれるようになりました。