秋田市

秋田市は秋田県のほぼ中央部に位置し、東の出羽山地から西の日本海に連なる緑豊かな都市です。秋田県を縦断する雄物川の下流に形成した秋田平野が主要部を占めています。江戸時代に佐竹義宣が移り住んで現在の千秋公園に新城を建設し、その城下町が現在の市街地の原型となりました。東北三大祭りの秋田竿燈まつりが開催されることでも知られています。
概要
- 面積
- 906.07km2
- 人口
- 300,344人(2023年9月1日)
- 市の木
- けやき
- 市の花
- さつき
- 市の記念日
- 7月12日
- 地図
歴史
海賊的な船団を率いて蝦夷地や大陸と交易を行う安東氏の一部が、湊安東氏として勢力基盤を整えました。湊安東氏は湊騒動を経て檜山安東氏と統合されますが、関ケ原の戦いの戦後処理で佐竹氏に入れ替わりました。佐竹氏は久保田城を築城し、その城下町は羽州街道の宿場町や北前船の寄港地として賑わいました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
雄物川の支流岩見川の河岸段丘である御所野台地の地蔵田遺跡や下堤G遺跡から旧石器時代の人の営みが見つかります。雄物川の豊かな恵みと周辺の山林での狩猟・採集活動により安定した生活を行い、地蔵田遺跡は弥生時代に大規模な環濠集落を形成しました。

児桜貝塚
高清水丘陵の東南端に位置する縄文時代前期の貝塚で、縄文海進の海水面上昇に伴い日本海側では珍しく貝塚が営まれました。

地蔵田遺跡
御所野台地の南端に位置する旧石器時代から弥生時代の複合遺跡で、全国で初めて木柵で囲まれた弥生時代前期の集落跡が発見されました。
古墳時代、飛鳥時代
畿内を中心とした大和王権の影響が及んでおらず、古墳は確認されていません。
奈良時代、平安時代
斉明天皇4年(658年)に阿倍比羅夫が遠征してきたことが日本書紀に記されています。平城京と言葉や文化が異なる蝦夷の人びとに律令支配を広げる拠点として、天平5年(733年)に秋田村高清水岡に出羽柵が置かれ、天平宝字4年(760年)ごろから秋田城と呼ばれるようになりました。

秋田城跡
中国様式を取り入れた大規模な官衙で、津軽や渡嶋から朝廷への貢物を受け取り、大陸の渤海国との北方交易の拠点としても重要な役割を果していました。

上代窯跡
下新城岩城地区の東方の丘陵部にある奈良時代から平安時代の窯跡で、窯跡2基と須恵器や円面硯が見つかりました。
鎌倉時代、南北朝時代
秋田郡の地頭には橘公業が任じられますが、秋田には常住せず間接的な支配体制でした。
室町時代、安土桃山時代
地域を支配する有力者の軍事的目的を備えた拠点である館が多数築かれました。海賊的な船団を率いて蝦夷地や大陸と交易を行う安東氏が分裂し、土崎湊に湊城を築城して基盤を整えて湊安東氏となりました。秋田湊は三津七湊の一つで、日本海および雄物川水運により発展していました。
湊騒動
檜山安東家の安東愛季の弟・安東茂季が湊安東家の家督を継ぐと、元亀元年(1570年)に豊島玄蕃頭が周辺の国人と同調して湊騒動と呼ばれる謀反を起こしました。安東愛季の援軍もあり反乱は鎮圧され、豊島玄蕃頭は山根館の仁賀保氏を頼り落ち延びました。檜山安東家と湊安東家は統合され、安東実季が秋田氏を名乗りこの地を統治しました。

豊島館跡
永正3年(1504年)に畠山重忠の末裔と言われる豊島玄蕃頭が築いた城で、元亀元年(1570年)の湊騒動で落城しますが、のちに豊島氏が復帰しました。
江戸時代
関ヶ原の戦いの戦後処理で転封された佐竹義宣は、久保田城を築城して統治を始めました。城下町は湊をつなぐ舟運の要となり、羽州街道も整備されて活気を呈しました。西廻り航路が開発されてからは北前船の寄港地として賑わい物資の集散地として発展しました。最後の藩主佐竹義尭は奥羽越列藩同盟に参加していましたが、奥羽越列藩同盟を脱退して新政府軍に味方して四面楚歌の中でも錦の御旗を守る立場を取りました。

久保田城跡
佐竹義宣が旭川を望む標高45メートルの丘陵に築いた平山城で、徳川家康に遠慮して石垣ではなく土塁の土造りとして天守も置かれませんでした。

万固山天徳寺
秋田藩主佐竹氏の菩提寺で、寛正3年(1462年)に佐竹義人が常陸国久慈郡に創建したのが始まりで、水戸霊松山を経て、慶長7年(1602年)に移されました。

正洞院墓
那須家から久保田藩初代藩主になる佐竹義宣の正室になり、弓や剣の稽古を疎かにし軟弱に流れる佐竹義宣を戒めるために24歳で自害したと伝えられます。

如斯亭庭園
9代藩主・佐竹義和が整備した別邸で、藩主の御休所や文人墨客の交遊の場として活用されました。近代造園の祖・長岡安平は東北では無二の名園と絶賛しました。

菅江真澄墓
菅江真澄は信濃、越後、出羽、陸奥、蝦夷など諸国を歴訪して、土地の歴史や文化などを絵と文章で詳しく記録した菅江真澄遊覧記を執筆しました。

平田篤胤の墓
文化元年(1804年)に真菅乃舎を開業して本居宣長の学業を学び、激しい儒教批判と尊王思想のため幕府の忌むところとなり秋田へ追放されました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で秋田県が成立して久保田城に県庁が置かれたのち、翌年に旧藩校の明徳館に県庁が移転しました。昭和20年(1945年)に日本最後の空襲の一つとされる土崎空襲があり、国内最大級の産油を誇る秋田市域周辺油田の原油を精製する製油所が標的となりました。

千秋公園
明治29年(1896年)に造園家・長岡安平が作庭し、漢学者の狩野良知が秋田が長く久しく続いて欲しい願いを込めて明治34年(1901年)に名付けられました。