能代市

能代市は秋田県北西部に位置し、西は日本海に面しています。市域の中央を奥羽山脈を源流とする米代川が貫流し、下流部に能代平野を形成して日本海へと流れ込みます。海岸沿いは日本最大級の風の松原が厳しい海風や飛砂から守り、天然秋田杉の産地として東洋一の木都と称された町を守ります。
概要
- 面積
- 426.95km2
- 人口
- 47,016人(2023年9月1日)
- 市の木
- 黒松、秋田杉
- 市の花
- サクラ
- 市の鳥
- 雉
- 地図
歴史
海賊的な船団を率いて蝦夷地や大陸と交易を行う安東氏が檜山城を拠点として城下町を築きました。江戸時代には北前船の寄港地としても栄え、秋田杉をはじめとする物資の流通拠点として重要な役割を担いました。明治時代に機械化が進み、東洋一の木都と呼ばれるようになりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
約3万年前に此掛沢遺跡で住んでいた人びとは石器を使い狩猟採集生活をしていました。縄文時代の杉沢台遺跡からは、北海道日高地方だけにある緑色岩アオトラ石の磨製石斧が見つかり、北海道と交易活動が行われていました。

杉沢台遺跡
東雲台地北側とその斜面にかけて形成された縄文時代前期から縄文時代中期の集落跡で、長辺が31メートルにも及ぶ大型の竪穴住居跡は国内でも有数の規模です。

柏子所貝塚
能代平野に面した洪積台地の北端に位置する縄文時代晩期の墓地と貝塚の遺跡で、赤く塗られた人骨やベンケイガイ製の貝輪などが出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
蝦夷と呼ばれる人びとが住んでおり、大和王権に対して抵抗していました。斉明天皇4年(658年)に阿倍比羅夫が蝦夷征伐のために渟代に上陸した記録が日本書紀に残されています。
奈良時代、平安時代
宝亀2年(771年)に野代湊に渤海の使者が来航した記録が残されています。
鎌倉時代、南北朝時代
蝦夷管領に任じられていた安東氏は流されてきた罪人や蝦夷地の交易の監視をしていましたが、やがて商人の統轄をして富を蓄積するようになりました。
室町時代、安土桃山時代
青森県藤崎町を拠点として海賊的な船団を率いて蝦夷地や大陸と交易を行う安東氏が、十三湊を拠点とする下国家と青森市を拠点とする後潟、出羽国土崎湊を拠点とする湊家上国家に分裂しました。後潟安東氏は蝦夷地を経て出羽国に戻り檜山城を築いて檜山安東氏となりました。

檜山安東氏城館跡(檜山城跡)
康正2年(1456年)頃に蝦夷から拠点を移した安東政季が築城を始め、明応4年(1495年)に安東忠季が完成しました。

檜山安東氏城館跡(大館跡)
檜山城の支城の一つと考えられていますが、元慶2年(878年)に蝦夷が蜂起した元慶の乱で大和朝廷が築いた野代営との説もあります。

檜山安東氏城館跡(茶臼館跡)
天正6年(1578年)に南部氏から独立した大浦為信が浪岡城主・北畠顕村を攻め滅ぼし、北畠顕村が安東愛季を頼りここに住んだという伝承があります。
江戸時代
米代川の舟運により米や秋田杉などの物資が運ばれ、能代港は木材の集散地となりました。 元禄7年(1694年)と宝永元年(1704年)に大きな地震が起こり、地名を良くなる意味を込めて野代から能代に改称しました。砂塵がひどく作物が育ちにくいため、文政5年(1822年)に賀藤景林らが砂浜に松を植樹して風の松原が形成しました。

鴨巣一里塚
慶長9年(1604年)に幕府の命を受けた久保田藩が造営した羽州街道の一里塚で、旧羽州街道で珍しい当時の原型をとどめた貴重な一里塚です。

檜山追分旧羽州街道松並木
天和元年(1681年)に佐竹氏が整備した羽州街道の面影を残す松並木で、天和期に植えたのち補植が行われました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)に秋田県が設置されました。明治時代には木材産業で発展し木都能代として知られるようになり、明治30年代には井坂直幹が機械製材技術を導入して生産性が飛躍的に向上しました。大正11年(1922年)には能代港が指定港湾となり近代的な港湾に発展していきました。