横手市

横手市は秋田県東南部に位置する秋田県第二の都市で、奥羽山脈と出羽丘陵に挟まれた横手盆地のほぼ中央に位置します。江戸時代に菅江真澄が川の氾濫を防ぐために築いた横土堤が名前の由来になりました。冬の寒さが厳しい特別豪雪地域に指定されており、伝統行事の横手かまくらが開催されます。日本三大焼きそばの一つに数えられる横手やきそばでも知られています。
概要
- 面積
- 692.80km2
- 人口
- 80,767人(2023年9月1日)
- 市の木
- りんご
- 市の花
- さくら
- 市の鳥
- 白鳥
- 地図
歴史
平安時代末期に清原氏の内紛に源義家が介入して後三年の役が起こりました。横手氏を舞台とした後三年の役で清原氏は滅亡し、藤原清衡が奥州藤原氏の礎を築いて平泉を拠点として栄華を誇りました。江戸時代に整備された羽州街道の宿場町として発展し、雄物川の河川交通網の整備により北前船で運ばれた物資が運び込まれるようになりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代から縄文時代前期の遺跡は奥羽山脈及び出羽山地のまわりの低丘陵や台地で確認されています。横 手川の河岸段丘上にある岩瀬遺跡から日本最古の石匙が出土し、大鳥井山遺跡から旧石器時代の動物解体用の石器や縄文時代中期から後期の住居や食糧を貯蔵したフラスコ状土坑などが見つかりました。稲作が伝わり人びとが平野部に移り住むようになりましたが、寒冷な気候のため縄文時代的な生活を続けていたと考えられています。

大鳥井山遺跡
横手川と杉沢川に挟まれる大鳥井山と小吉山の丘陵にあり、狩猟採集の居住地として便利であるため竪穴住居跡や石囲炉などが見つかりました。
古墳時代、飛鳥時代
大和王権の影響が及ばずに古墳は発見されていませんが、続縄文時代の集落遺跡がおよそ20か所見つかりました。5世紀になると古墳文化が入り込み、オホン清水B遺跡から県内最古の須恵器有蓋高坏や土師器が大量に出土し、一本杉遺跡からは竪穴建物跡と大量の土師器が出土しています。
奈良時代、平安時代
7世紀末から次第に大和朝廷の影響が拡大し、8世紀中ごろには在地首長の墓とされる蝦夷塚古墳群が造営されました。岩手郡、志波郡、稗貫郡、和賀郡、江刺郡、胆沢郡の陸奥六郡が新たに支配領域となり、安倍氏や清原氏が統治しました。11世紀後半になると安倍氏が大和朝廷に反抗して前九年の役が起こり、源頼家は清原武則の協力を得て安倍氏を滅ぼしますが、これが火種となり後三年の役が起こりました。
後三年の役と奥州藤原氏
清原武則から陸奥六郡を引き継いだ清原武貞は、前九年の役で反乱を起こした安倍頼時の娘で藤原経清の妻・有加一乃末陪を妻として迎えました。有加一乃末陪の連れ子は清原清衡と名乗り、清原武貞と有加一乃末陪の間には清原家衡が産まれました。清原武貞の跡を継いだ清原真衡が急死すると、源義家の仲介で清衡・家衡の異母兄弟に領地が分配されましたが、この分配に反発した清原家衡は源義家と清原清衡の連合軍に滅ぼされました。全ての領地を手に入れた清原清衡は、姓を藤原に戻して奥州藤原氏の祖となりました。

大鳥井山陣館遺跡
大鳥井柵は奥羽一帯を支配する清原光頼と清原頼遠(大鳥居太郎頼遠)の父子により築かれ、清原氏が滅亡するまで機能していたと考えられています。

平安の風わたる公園
後三年の合戦の古戦場・西沼のほとりにある歴史公園で、平成3年(1991年)に整備されました。合戦で活躍した源義家や藤原清衡などの銅像があります。
鎌倉時代、南北朝時代
文治5年(1189年)に源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼすと、松葉惟泰が尾張国から出羽平鹿郡に下向して平鹿氏(平賀氏)を称して支配しました。伝統行事・横手のかまくらは、鎌倉時代の鎌倉大明神の創建や後三年の役で活躍した鎌倉権五郎景政を奉祀が起源と言われています。
室町時代、安土桃山時代
大永年間(1521~28年)に小野寺稙道が平鹿郡西部の沼館城を本拠地とし、金沢城や増田城などの支城を設けて支配領域を拡大しました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで小野寺義道は東軍に与しましたが、仇敵の最上義光が出羽の東軍旗頭であることを理由に上杉氏に通じました。慶長5年(1601年)に西軍と見なされた小野寺氏は改易となり、最上氏が治めたあと佐竹義宣が秋田に転封になりました。

横手城
横手を拠点として反抗した小野寺配下の横手氏、大和田氏、金沢氏を鎮圧した小野寺輝道が、天文23年(1554年)頃に築城して本拠を置いたと伝わります。

吉田城跡
小野寺輝道が隠居するために築城されたと言われ、佐竹氏統治時代に茂木監物が城主となりましたが、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となりました。
江戸時代
横手城は領内南部の重要な拠点となり、元和元年(1615年)に徳川秀忠が発令した一国一城令の例外として取り壊しを免れました。寛文12年(1672年)に佐竹氏一門の戸村義連が入城して十太夫を称し、現在の町並みに繋がる城下町を整備していきました。城下町は奥州街道桑折宿から秋田や青森を結ぶ羽州街道の宿場町・横手宿として栄え、雄物川の河川交通網の整備により土崎港に寄港する北前船からの物資も運ばれるようになりました。
戊辰戦争
慶応4年(1868年)に始まる戊辰戦争で、薩摩・長州の藩士が指揮する官軍と会津藩に与する奥羽列藩同盟軍との間で戦闘が起こると、久保田藩は最終的に新政府軍について戸村大学が横手城に籠もりました。横手市は最上藩や庄内藩との戦場となり、横手市街は焼失して横手城は落城しました。

秋田神社
戊辰戦争で戦死した22人の戦没者を慰めるため、明治12年(1879年)に焼失した城の資材を再利用して横手城本丸跡地に建立されました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県により秋田県となりました。明治38年(1905年)の奥羽線開通により物流が盛んになり、繊維産業の工場や会社が建設されて中核都市として発展しました。大正4年(1915年)に吉野鉱山で大規模な鉱床が発見され、銅鉱山として活況を呈しました。昭和26年(1951年)に横手氏が誕生しました。