歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

大館市

秋田県大館市の大館市街

大館市は秋田県北部に位置し、四方を山に囲まれた盆地の中央を秋田三大河川である米代川が貫いています。農業のほか豊富な森林資源を活かした製材業や木工品製造業が盛んです。飼い主亡き後も渋谷駅の前でその帰りを待ち続けた忠犬ハチ公の故郷であり、秋田の郷土料理であるきりたんぽの発祥の地です。

概要

面積
913.22km2
人口
65,765人(2023年9月1日)
市の木
秋田杉
市の花
キク
地図

歴史

奥州藤原氏が滅亡して浅利氏が地頭職を得ましたが、鎌倉幕府の崩壊とともに諸勢力の活動が活発化しました。比内・大館地域は安東氏、南部氏、津軽氏の抗争の地となり、浅利氏は滅亡しました。江戸時代に佐竹氏が出羽国に転封となり大館城が支城となりましたが、戊辰戦争で攻められて大館城下町は荒廃しました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

米代川とその支流により河岸段丘が発達し、古くから人びとが生活していました。松木高館平遺跡からナイフ形の石器が見つかりましたが、十和田火山の噴火による火砕流で縄文時代創成期までの遺跡は発見されていません。縄文時代前期から晩期までに中茂屋遺跡や池内遺跡など60カ所の集落跡が見つかりましたが、弥生時代の諏訪台遺跡などからは農耕を示す証拠が見つかりません。

秋田県大館市の矢石館遺跡

矢石館遺跡

米代川支流の早口川沿いにある墓域を持つ縄文時代後期の集落跡地で、川原石を組んで作られた石棺墓が5基や2基の環状組石が発見されました。

古墳時代、飛鳥時代

古墳文化圏には含まれず、北海道を中心とする続縄文文化圏に入ります。この時代には片山館コ遺跡が形成していますが、人びとの詳しい生活様式は分かりません。斉明天皇4年(658年)に阿倍比羅夫が秋田浦から侵攻しましたが、独自の自立性は保ち続けました。

奈良時代、平安時代

元慶2年(878年)に秋田城の苛政に対し、上津野(鹿角)、火内(大館)、椙淵(北秋田)ら米代川流域と八郎潟周辺の十二村が独立を求めて蜂起し、秋田城を襲う元慶の乱が起きました。10世紀から遺跡の数が急増するようになり、代表的な集落跡の大館野遺跡は矢立廃寺と古道で結ばれました。

奥州藤原氏の滅亡

寛治元年(1087年)に後三年の役で勝利した藤原清衡は平泉を本拠地とし、贄柵を本拠とする大館地方の豪族・河田氏を支配下に組み込みました。文治5年(1189年)に源頼朝に侵攻された藤原泰衡は、夷狄島(北海道)に逃げる途中に贄柵の河田次郎を頼りますが、河田次郎は藤原泰衡を謀殺してその首を源頼朝に届けました。源頼朝は不義不忠の臣として河田次郎を斬罪に処し、甲斐国浅利郷を本拠とする浅利太郎冠者義遠に大館地方の地頭職を与えました。

秋田県大館市の矢立廃寺跡

矢立廃寺跡

天治2年(1125年)から承安5年(1175年)頃に存在していた寺院で、醍醐天皇の側近、無等良雄(万里小路藤原藤房)が出家して遁世した場所と言われます。

鎌倉時代、南北朝時代

出羽国比内郡は比内浅利家が支配下に置いていましたが、鎌倉幕府の支配力が衰えて滅亡すると周辺豪族の活動が活発化しました。南北朝の争乱で南部師行と曽我貞光が争うようになると、浅利氏は北朝方の曽我氏に加わり南朝方の南部氏と成田氏との抗争の地となりました。

室町時代、安土桃山時代

浅利則頼が勢力を拡大して全盛期を築きますが、浅利則祐が家督を相続すると腹違いの弟浅利勝頼と対立して内乱となりました。浅利勝頼は長年の宿敵安東氏と結び、永禄5年(1562年)に浅利則祐を攻め滅ぼして安東氏に従属しました。

安東氏と南部氏の抗争

浅利勝頼は安東氏から独立を目指して津軽氏と結び、天正10年(1582年)に安東愛季は和睦と称して浅利勝頼を檜山城に招いて謀殺しました。大館城には五十目秀兼が入りますが、天正16年(1588年)に南部氏に内応して南部氏配下の北信愛が城代となりました。その2年後に南部氏の騒動に乗じて秋田氏(安東氏)が再び大館城を奪還するなど、大館城を巡り抗争が続きました。

秋田県大館市の大館城跡

大館城跡

天正10年(1582年)に浅利勝頼が築城し、南部氏と安東氏で争奪戦が繰り返されました。江戸時代の一国一城令でも存続が認められました。

江戸時代

関ヶ原の戦いの戦後処理により、佐竹氏が久保田城を築城して出羽国を支配しました。慶長15年(1610年)に小場義成が檜山城から大館城に移り、三代小場義房が佐竹姓の使用を許されて、六代佐竹義村から佐竹西家となりました。大館城は一国一城令でも例外として存続を認められますが、慶応4年(1868年)の戊辰戦争で南部氏の大軍に攻められ、佐竹義遵(佐竹大和)が城に火を放ち焼失しました。

秋田県大館市の安藤昌益墓

安藤昌益墓

安藤昌益は著書の自然真営道で、万人が自ら耕作して食料や衣服を自給する自然の世を理想として、力の強い武士が弱い農民を支配して搾取し栄華を極める現実を否定しました。

秋田県大館市の桂城公園

桂城公園

戊辰戦争で大館城は焼失しました。その跡地は学校用地を経て、昭和29年(1954年)に桂城公園として整備されました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県で秋田県となりました。明治18年(1885年)に浅利藤松らの堤沢露頭などの発見で花岡鉱山の開発が始められ、大正4年(1915年)に花岡鉱山は小坂鉱山の支山となりますが、新鉱床が発見されて鉱山町として発展しました。昭和26年(1951年)に大館市が誕生しました。

秋田県大館市の旧鳥潟家住宅

旧鳥潟家住宅

宝暦11年(1761年)頃に建造された旧主屋を鳥潟隆三が曳き屋して増改築し、近代的な設備が備えられトイレは水洗で風呂は蛇口が取り付けられています。

秋田県大館市の鳥潟会館庭園

鳥潟会館庭園

昭和11年(1936年)に小川治兵衛門下の粕谷幸作が造営した池泉回遊式庭園で、庭石に京都の鞍馬石を使うなど京風の情緒豊かな庭園として整備されています。