歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

男鹿市

秋田県男鹿市の男鹿市街

男鹿市は秋田県臨海部のほぼ真ん中にあり、日本海に突き出る独特な地形をしています。日本海で獲れるハタハタ・タラ・カニなどの海産物のほか梨やメロンなどの農産物が名産です。奇岩怪石や洞窟の連なる海岸線に半島のシンボル寒風山からの壮大な眺望が堪能できる土地で、古来からの風習なまはげの郷でもあります。

概要

面積
241.09km2
人口
23,022人(2023年9月1日)
市の木
市の花
つばき
市の鳥
アオサギ
地図

歴史

檜山安東家の当主となる安東愛季が脇本城を築城し、能代湊の整備拡大で財力を蓄えて支配を強化しました。江戸時代に新田開発が行われたほか、西廻り航路の開発で北前船の寄港地として栄えました。男鹿半島南東部の船川港は明治時代に入り国際的な港として一層の発展を遂げました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

男鹿半島は黒曜石産地で、縄文時代以降の遺跡が300カ所以上発見されています。縄文時代中期の大畑台遺跡では竪穴建物跡のほか、黒曜石の石器やアスファルトの利用が確認されています。弥生時代の水稲耕作を示す水田は見つかりませんが、志藤沢遺跡や横長根A遺跡では炭化した米が出土しています。

徐福伝説となまはげ伝説

男鹿半島には、始皇帝の命を受けて不老不死の霊薬を探しに出かけた徐福が訪れた伝説が残ります。徐福が率いた屈強な人びとは、異質な風貌と強靭な体力から鬼と恐れられていました。村人たちは鬼を山に追いやるため、鬼に対して一夜で千段の石段を築けるか賭けを申し入れました。鬼たちは順調に石段を築いていきますが、あと少しのところで村人が一番鶏の鳴き声を真似して失敗と勘違いした鬼たちは山へと退散していきました。やがて村人たちは鬼を悪霊を祓う神として祀り、伝統行事なまはげが生まれたとされます。

古墳時代、飛鳥時代

大和王権の影響が遅れて波及してきたため畿内に比べて古墳の数が少ないです。高塚の飯の町古墳のみ見つかりますが、規模や副葬品などの詳細は不明な点が多いです。斉明天皇4年(658年)に阿倍比羅夫が遠征し、秋田浦から侵攻したことが日本書紀に記されており、齶田の首長である恩荷が転じて男鹿となりました。

奈良時代、平安時代

和銅5年(712年)に越後国から出羽郡が分離して出羽国が成立しました。雄物川は内陸部と日本海を結ぶ重要な交通路であり、内陸部の物資を運び出すルートとして活用されたと考えられています。

鎌倉時代、南北朝時代

奥州征伐で奥州藤原氏が滅亡すると、その遺領には関東御家人が地頭として配置され、南秋田郡には橘公業が地頭として入部しました。藤原氏配下の大河兼任が鎌倉幕府に対して反旗を翻すと、橘公業は敗れて鎌倉に敗走しました。やがて海賊的な活動を行う安東一族が土崎湊を拠点として、湊安東家として土着するようになりました。

室町時代、安土桃山時代

天文22年(1553年)に檜山安東家の当主となる安東愛季は、能代湊の整備拡大を行い交易と津料徴収などで財力を蓄えて米代川流域の支配力強化を図りました。能代湊は蝦夷地や北方諸国との交易を行い北日本最大の港湾都市となり、土崎湊は出羽国南部や本州との交易を行い日本海側最大の港湾都市として栄えました。

湊騒動

弟の安東茂季を湊安東家に送り込んで安東家を統一しますが、元亀元年(1570年)に湊家安東氏に不満がある湊城付近の国人が挙兵して第一次湊騒動が起きました。安東愛季の跡を安東実季が継ぐと、天正17年(1589年)に従兄弟の安東通季が反乱を起こして第二次湊騒動が起こりました。安東実季は土崎に湊城を築城して秋田に改姓し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属して、慶長7年(1602年)に常陸国宍戸に転封となりました。

秋田県男鹿市の脇本城跡

脇本城跡

男鹿半島の付け根にある東北最大級の山城で、天正5年(1577年)に安東愛季が14世紀半ばの城郭を大改修して居城としました。

秋田県男鹿市の脇本城跡天下道

脇本城跡天下道

交易で得られたラッコ皮や獣皮、干し魚、昆布などは天下道で運ばれ、時の権力者である織田信長や豊臣秀吉に献上されるなど外交に役立てられました。

江戸時代

文政8年(1825年)に渡部斧松は荒れ果てた払戸一帯に引水して渡部村を建設しました。さらに新田開発や河川の護岸工事などに専念して老農として名を高めました。大阪から北海道までの西回り航路が整備されると、船川港、加茂港、戸賀港などは北前船の寄港地として栄えました。

秋田県男鹿市の渡部斧松翁遺跡

渡部斧松翁遺跡

渡部斧松は八郎潟周辺を初めて新田開発した人物で、寒風山からの伏流水に着目して滝の頭湧水を用水源として私財を投じて8キロにおよぶ水路をつくりました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治44年(1911年)に男鹿半島南東部に位置する船川港の築港が始まり、小樽―ウラジオストク間の定期船が寄港する国際的な港へと発展していきました。大正5年(1916年)には船川軽便線(男鹿線)が開通して海陸運送の拠点として一層の発展を遂げました。昭和29年(1954年)に船川港町・脇本村・男鹿中村・戸賀村が合併して男鹿市が成立しました。