歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

由利本荘市

秋田県由利本荘市の天鷺村

由利本荘市は秋田県南部にある秋田県最大の面積で、南は鳥海山がそびえ西は日本海に面します。市域の中央を子吉川が流れ、鳥海山の伏流水が豊富で酒蔵が多いのが特徴です。日本海側は美しい海岸線が続き、標高の高い牧草地が広がる花立牧場公園は星空が美しい町として認定されています。

概要

面積
1,209.59km2
人口
71,502人(2023年9月1日)
市の木
ケヤキ
市の花
サクラ
地図

歴史

由利十二頭が統治していた地域は、安東氏や小野寺氏などの大勢力の影響を受けながら一揆を結成して対抗しました。山形の最上氏の支配下に置かれますが、江戸時代に最上氏が改易されると六郷氏、岩城氏、打越氏が入部して統治しました。江戸時代の新田開発で穀倉地帯となり、古雪湊や石脇湊は北前船の寄港地として栄えました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

縄文時代に子吉川と芋川の合流地点に菖蒲崎貝塚が造営され、宮崎遺跡などで弥生土器が見つかりました。縄文時代後期から晩期の湯出野遺跡から、東日本最大級の規模を誇る103基の土墓墓が見つかりました。

秋田県由利本荘市の法体の滝および甌穴

法体の滝および甌穴

約10万年前の鳥海山の噴火で形成した溶岩を子吉川の水が一気に落ちる滝で、三の滝の岩盤には規則的な柱状の割れ目である柱状節理が見られます。

秋田県由利本荘市の湯出野遺跡

湯出野遺跡

石沢川右岸の河岸段丘に残る縄文時代後期から晩期の遺跡で、東日本最大級の規模を誇る103基の土墓墓と埋設土器8基が見つかりました。

古墳時代、飛鳥時代

大和王権の影響が及んだ北限にあたり、前方後円墳などの古墳は見つからないものの集落や墓の痕跡が見つかります。

奈良時代、平安時代

大和王権が東北地方を支配する政策の一環として由理柵を造営したとされています。やがて由利氏ら在地豪族が勢力を強めました。

秋田県由利本荘市の鳥海山

鳥海山

出羽富士とも呼ばれる標高2236メートルの霊峰で、平安時代に薬師如来を本地として祈祷などで効験を現す修験者の霊場として繁栄しました。

秋田県由利本荘市の横山遺跡

横山遺跡

9世紀前葉~10世紀初頭の平安時代の水田集落跡で、延喜15年(915年)の十和田火山噴火による火山灰の降灰などで廃絶したと推定されています。

鎌倉時代、南北朝時代

鎌倉幕府が成立すると、在地武士団を形成した由利維平が地頭に任ぜられました。建暦3年(1213年)の和田合戦で由利維久が和田氏への寝返りを疑われて由利郡の地頭職を剥奪され、小笠原遠光の娘大弐局が地頭職となりますが、実子がいないため大井朝光に地頭職が譲られました。異説では由利政春が栗山館主鳥海氏と対立するようになり、正中元年(1324年)に由利氏が鳥海氏に滅ぼされたとされます。

室町時代、安土桃山時代

由利十二頭と呼ばれる小勢力が割拠しており、安東氏や小野寺氏などの大勢力の影響を受けていました。由利十二頭の最大勢力である赤尾津氏は、関ヶ原の戦いで最上氏に属して東軍として参戦したのち最上氏に仕えたため、由利郡は最上氏が統治しました。

江戸時代

元和8年(1622年)に山形藩主最上氏が改易されて本多正純の所領となりましたが、翌年に本多正純が改易されて六郷政乗、岩城吉隆、打越光隆が入部しました。六郷氏は本荘藩、岩城氏は亀田藩を立藩しますが、打越氏は2代打越光久が嫡子なく断絶し、生駒騒動を起こした生駒高俊が減封されて矢島を治めました。

本荘藩と亀田藩

本荘藩は新田開発や殖産振興に努め、藩校修身館を設置して教育にも力を入れました。本荘藩は米の産地として江戸で関とる本荘米と称され、北前船寄港地として物流が盛んな町となりました。亀田藩では、名君と呼ばれる3代・岩城重隆が新田開発を行い、酒造業や精麺業なども盛んになりました。5代藩主・岩城隆韶が朱子学を基盤とする亀田藩学の基礎を作り、7代藩主・岩城隆恕が藩校・長善館と医学校・上池館を設立しました。

戊辰戦争と亀田藩

幕末の戊辰戦争では、12代藩主・岩城隆邦は奥羽越列藩同盟で旧幕府軍に属しましたが、久保田藩とともに奥羽越列藩同盟を離脱して新政府軍に加担しました。亀田藩は庄内藩から攻められて旧幕府軍に寝返りますが、新政府側の久保田藩から攻められて亀田城は焼失しました。

秋田県由利本荘市の亀田城

亀田城

岩城吉隆が由利十二頭の赤尾津氏が居城にしていた赤尾津城の麓に陣屋を築き、8代藩主岩城隆喜が城主格となり亀田陣屋は亀田城と呼ばれるようになりました。

秋田県由利本荘市の亀田藩主岩城家墓所

亀田藩主岩城家墓所

岩城家累代の菩提寺である龍門寺は陸奥国磐城に創建しましたが、岩城吉隆が岩城亀田藩を立藩すると、寛永5年(1628年)にこの地に移されました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治時代後期に稲刈り前に水田の水を乾燥させて春に馬で耕す乾田馬耕が普及し、稲の腐敗を防いで生産性や品質が向上しました。戦後に農地改革により地主小作関係が解体し、自分の土地を所有して耕作するスタイルが定着しました。昭和後半から農業の機械化が進んだことで農家の兼業が進み、農業人口の減少を招きました。